2016年9月4日日曜日

推敲 14½ 

14½ 幸福な人の報酬系
イギリスの脳科学者エレーヌ・フォックスElaine Fox先生のRainy Brain, Sunny Brain: How to Retrain Your Brain to Overcome Pessimism and Achieve a More Positive Outlook , Basic Books, 2012」が話題である。日本語でも「脳科学は人格を変えられるか? 」(文芸春秋, 2014)という題で発売されたし、最近ではNHK Eテレ『心と脳の白熱教室』(2015724日(金)23時~)にも著者本人が登場した。私も観て大いに学んだ。
本書の英語の題である“Rainy Brain, Sunny”はこのままだと「雨の日の脳、晴れの日の脳」と訳せるが、要するにいつも晴れの天気のような楽観主事な人と、いつも心配事や悪い予測をしている悲観的な人との差はどのように生まれるか、という研究の本である。
私たちの中には、確かに楽観的な人と悲観的な人がいる。私は地下鉄の駅をできるだけ小走りで駆け下りるようにしているが、それはいつも地下鉄は私がホームについたとたんにドアが閉まるようなシステムになっていると確信しているからだ。だから少しでも早く降りてそのような体験を回避しようと思うが、地下鉄の方が一枚上手である。私が駆け下りるのに合わせて、向こうも一瞬先にドアを閉めるように計算しているらしい。日本の地下鉄網はなんと用意周到なのか・・・・。ナーンテ思うとしたら、私は「雨の日の脳」ということになる。(いや、むしろ妄想に近いか。)
まあこれほど極端ではないにしても、ネガティブなことにことさら目を向けて、「俺はどうせダメなんだ」という人と「うん、やはり俺は『持って』いる」と思う人の二通りがある。(ただしおそらく私たちの大部分はその中間のどこかに位置しているのであろうが。) 同じことが起きても、人によっては全然気にしないことでも、別の人はくよくよ悩む。これを心理学では認知バイアス cognitive bias という。これは結構大事な概念で、ある種の認知のゆがみが人を鬱にしたり、死にたい気持ちにさせたりするという理論に関連する。実際に認知療法が鬱の精神療法の第一選択と考えられるのも、いかにこの認知と気分の問題が関係しているかの証明と言えよう。ウィンストン・チャーチルはこう言っているそうだ。悲観論者はすべてのチャンスに困難さを見出し、楽観論者はすべての困難にチャンスを見出す。A pessimist sees the difficulty in every opportunity, an optimist sees the opportunity in every difficulty”
フォクス博士はこのうち悲観的な脳とセロトニン・トランスポーター(ST)遺伝子との関連について述べる。ST遺伝子とは要するに脳のセロトニンの量を調節する遺伝子だと思えばいい。これは短い遺伝子(S)と長い遺伝子(L)があり、二つの短い遺伝子(SS)を持つとセロトニンの量が低下し、二つの長い遺伝子(LL)だと量が増大する。ものすごーく省略していうとそういうことだ。するとSLを持つ人は中間ということになるだろう。
さて、興味深いのはSSの人がLLを持つ人に比べて余計鬱になりやすいかというとそういうことはなく、うつになる比率は変わらない。問題は人生上のストレスが3つ以上重なった時にSSの人はLLの人よりはるかに鬱になりやすいという研究結果があるということだ。
「雨の日脳」とセロトニン
フォックスは、雨の日脳サーキット rainy brain circuit というものを考える。それは基本的にはアラームシステムとしての扁桃核と前頭葉の結びつきであるという。アラームシステムは雨の日脳の人は特に発動しやすい。ちょっとした不都合な事態でも「大変だ!!」ということになりやすいのだ。ところが前頭葉は「前も大丈夫だったでしょ。世話あない」ということになる。雨の日脳の人は、この扁桃核と前頭葉の協調が、どちらかと言えば活発ということになる。
 さて、では「晴れの日脳」とは何か?ここでやっと出てくるのが、側坐核を中心とする報酬系だ。ここもまだ前頭葉と引っ張りっこをしている。Sunny brain circuit とは側坐核―前頭葉ということになる。晴れの日脳の人は心地よいことを考え慣れ、それを志向するということだ。
フォックスさんの研究で、カードに対する反射時間を調べるというものがある。心地よい絵と、不快な絵を見せ、それぞれにある種のマーキングを行う。そのマーキングが見えたらボタンを押すというテストをすると、晴れの日脳の人は、心地よい絵についたマーキングに対して、不快な絵の場合より若干早くボタンを押す。雨の日脳の人の場合はその逆というわけだ。そしてさらに面白いのは、雨の日脳タイプの反応をしていた人に、晴れの日脳タイプの反応をする練習をしてもらうことで、そうなれるという。つまりはコンピューターを使ってトレーニングをすることで、悲観的な人も楽観的になれるというわけだ。本当だろうか?
一つの教訓がある。世の中には、報酬系をいつも「鳴らしている」人たちがいる。「ああ、気持ちいいなあ、面白いなあ」と思いながら生きている。幸せな人たちだ。いや、皮肉ではなく。報酬系はマイルドに興奮している分には私たちに幸せを運んでくれる。ただし調子に乗ってそれをもっと興奮させようとするのが人間のサガであり、それがその人の人生を破綻に導く。豊かな精神がそれに歯止めをかける。「衣食足りて礼節を知る」、というが、衣食が足りることで報酬系が緩徐に刺激されれば、それで満足できるような高邁な精神だけではないのだ。
そして現代社会が報酬系過剰刺激に拍車をかける。コンビニに行けば24時間、安く口当たりのいいものが提供される。手元においておけば始終楽しむことの出来るゲーム機(別名スマホ)がある。報酬系刺激はほどほどに、という原則は、それを破ることへの歯止め(お金、労力)があって守られる。現代社会はその歯止めを失いつつあるのである。
幸福な人の脳の最新情報
こんなことを書いているうちにある情報が入ってきた。日本人の研究だ。Structural and functional associations of the rostral anterior cingulate cortex with subjective happiness.  
Masahiro Matsunaga, Hiroaki Kawamichi, Takahiko Koike, Kazufumi Yoshihara, Yumiko Yoshida, Haruka K. Takahashi, Eri Nakagawa, Norihiro Sadato.
NeuroImage.   2016 413日オンライン版掲載
 自然科学研究機構(定藤規弘教授ら)の共同研究グループは、MRIを用いて、幸せに関連する脳領域を構造面・機能面から調べたという。その結果、幸福度が高い人ほど内側前頭前野の一領域である吻側前部帯状回という脳領域の体積が大きく、その大きさはポジティブな出来事に直面した時の吻側前部帯状回の活性化と関連している(幸福度が高い人は、吻側前部帯状回が大きいために幸せ感情を感じやすい)ということが明らかとなった。彼らは幸福感を二つに分け、持続的な幸福と、一時的な幸福とした。するとこららの幸福の二側面が共通の神経基盤(吻側前部帯状回)を持ち、持続的な幸福はその体積に、一時的な幸福はポジティブな出来事を想起している最中の神経活動に関係していることがわかったという。すばらしい。