2016年9月18日日曜日

書くことと考えること(推敲) ②

書く事で体験を回避、ないし克服すること

ところで私にとって書くことは、それにより体験の場から離れ、それを上から見下ろす、高みの見物を決め込むというところがあります。これはある意味で大きな問題をはらんでいるのではないかと、自分自身が思うことがあります。それは実際の体験を回避する傾向とも言えるのです。そのような考えに至った二つの体験について考えたいと思います。(実はすでに何回か書いたことですが。)
一つは私が精神科医としてのキャリアを始めたばかりのことです。私の出身大学では精神科が真っ二つに分かれて対立していました。その対立は学生運動の名残であり、いわゆる外来派と病棟派がいがみ合い、それこそ相手への吊るし上げが生じたりするような激しいものでした。医学部を出た後に精神医学を専攻するものは、そのどちらで研修を受けるかを自分で決める必要があったわけですが、それは将来どちらの系列の病院に勤務することになるかも含めた、結構大きな決断を含んでいたのです。
さて私は医学部生のころ、これから精神科の研修をする医師として、こともあろうに精神科がお互いに話し合い歩み寄ることなく二つに分かれて対立を続け、研修の機会を狭くしているのはおかしいと考え、一人だけでも一年ごとにそれぞれの精神科の部局で研修することを要求しました。私の要求は今から考えても理にかなったものだと思うのですが、私の同期の他の6人も含めて、他に両方を回るなどと言いだす研修医は一人もいなかったのです。「そんなドン・キホーテのような真似をするのはお前ひとりでいい」、という感じでした。また私を受け入れる側の研修先も対応に困ったはずです。それでも一年ずつ外来派と病棟派で私は研修を行ったわけですが、私の中では初めて両精神科を回った稀有な研修生という形で誰からも評価を得ることなく、かえって両方から相手のスパイとして見られるということになり、実に涙ぐましい体験であったといえます。しかしほとんどだれもそれを知る人はいません。両方の精神科部局はあれほど憎しみ合っていたにもかかわらず、私が留学していている間にあっさり手打ちとなり、合併してしまったのです。私としては今から思い出しても大変な3年間だったのですが、私の中では一つの区切りをつけることが出来ているのです。その一つの大きな要因は、その顛末をある本のある章にまとめて書いたからです。それは「恥と自己愛の精神分析理論」という1997年の書で、いわば岩崎学術出版社という組織の力を借りて活字にした、私の体験のあかしなわけです。実は私のその章を読んで「先生も大変でしたね」という声をかけてもらったことは一度もありません。結局私の独りよがりで、他の人にとってはどうでもいい体験なのです。でも私がそれを受け入れることができるのは、それを活字にすることが出来たからです。大げさに言えば私の体験の記念碑が、そこに立っているようなもので、「そこに書いたから気が済んだ」というところがあります。 
このように私には文章を書くということは、ある意味では体を動かす体験をどこかで抑制する効果があるのではないかと考えるが、同時に一人の人間にできることは非常に限られ、それなら文章の一つでも残した方がましだ、と思ってしまうのだ。私はいろいろな体験を観察することから始めてしまう。これは業のようなものである。
 同じ文脈でもう一つの体験を語りたい。たとえば私は最近、精神分析家としてのアイデンティティーを揺るがされるような体験を持ったのです。私は精神分析家としてのキャリアを積むための一つの大きなプロセスともいうべき資格を得るための審査に落第してしまったのです。その審査の段階は通常形式的なものであり、その落選は全く予想外でしたし、ある意味では大きな失望や驚きの体験でした。しかしそのようなとき私がまず考えるのは、そのような体験をいかに自分の中に取り入れて、興味深く眺め、その上で現実がいかに予想外に展開し、いかに自分がそれに対して無力かを思い知るということです。つまりそのプロセスに対して異議を唱えたり、将来の審査に備えて状況を変えるということではないのです。
繰り返しますが、このような傾向は私を物事を受け入れるという方向に向かわせてくれるとともに、ある意味ではとても受身的にするというところがあります。この私の性質は、人生のあらゆる場面で人と争ったり、力を競ったりする舞台を避けることと関連しています。私は最初から敗北主義でエディプス葛藤を最初から放棄しているともいえるのです。私には人と真っ向から戦うということに対する抵抗が強く、すぐ相手に興味を持ち、観察してしまうというところがあります。そしてどこかで、実際の行動を伴った関わりではなく、著述こそが雌雄を決するものだ、と開き直っているところがあります。これは私なりのエディプス状況の切り抜け方、防衛であるとも言えるでしょう。


分かることとは、もう一度不可知に突き落とされること


結局私は人間の心の何をわかりたいのでしょうか? わかってどうするのでしょうか? 実は最後までわかってしまうのは、私にとっては不都合なのだろうとおもいます。もう考えることがなくなってしまうと、考えることが趣味の私としては困ってしまうというわけです。しかしうまくしたもので、人の心についてわかるということは、さらにわからないことに出会うということでもあります。わかるということは、ひとつの地点に到達したという感覚を生むと同時に、そこの先に広大な不可知を示してくれるのです。またそうでなくてはならないでしょう。
 山登りに例えるならば、一つのことをわかることは、一つの峯に立つことです。そこからこれまでは見えなかった景色が見えるのはうれしいことです。ふもとから今の地点までの足跡も振り返ることができます。しかし上を見ると、次の尾根くらいは見えますが、その上はまだ雲に隠れて山頂は見えないことに気が付きます。結局はその上にいつまでも峰が続いていることを知って呆然とし、そして同時に少しだけ心地よさを覚えるのです。
 私たちの中にはわからないことの中に放り出されることの快感を感じる部分があるのでしょう。松木邦裕先生の講演に出てくる
詩人ジョン・キーツの言葉 negative capability”とは、結局不可知性に伴う快感に支えられていると私は考えています。そして世界が不可知である限り、私は一生考え続けても決してそのテーマはなくなりません。ゲームだったら結局最高レベルに行きついてゲームオーバーになるのでしょう。しかし考えることにゲームオーバーはありません。エンドレスなのです。これは非常に恵まれたことです。
私は同様のわからなさを、実は人間一人一人についても感じています。人間はわかりませんし、わかりつくすことなど絶対にできない、というのが私の考えですが、臨床の面白さを支えている極めて重要なファクターは、この個々人の不可知性なのです。
あるとき患者さんAさん(20代女性)が私の前で手首を切ったことがあります。彼女は解離状態に陥り、隠し持っていたカッターナイフを手首に突き刺したのです。もう10年来会っている患者さんがこれまでにただ一回起こした、治療室でのリストカット。全く予想していませんでした。幸い総合病院の精神科なので、彼女の手を抑えてERに送りました。しかしあわただしい処置の後、私はこの展開の不思議さにちょっと感動しているのです。もちろんそれから私は彼女とそのリストカットについて考えました。解離の中でそれが起きたAさんには、それを十分に思い出すことができませんでした。私たちはそれが生じた経緯の一部について理解し、しかし結局はなぜそれが生じたのかがわからなかったのです。アクティングアウト? デモンストレーション? 私への怒りの表れ?? どれも正解で、どれも外れている気がする。結局本当のところはわかりません。そして「よくわからないけれど、これからも治療を続けようね。」ということになりました。
 それから5年たっていますが、私は依然としてAさんと会っています。10年間の治療の中でたった一度だけ起きた私の前でのリストカット。なんと不思議な展開だったのだろうと今でも考えます。その不思議さが私を臨床に留まらせるのです。そしてあのリストカットのことは、わからないからこそいつも彼女の顔を見ると思いだされるのです。そして少なくともその地点からはずいぶん歩んできたね、とお互いに思うことができるのです。
私はよく人から、難しいケースを扱っていて、「よくそこまで我慢が出来ますね」、とか「そんなことを言われてよく平気ですね」、といわれることがあります。しかしそれは一つにはその意味を問い、わかろうとしなかったことがあると思います。
治療例に限らず、人生においては様々なことが起きる。思わぬ人と出会い、思わぬ人と疎遠になります。思わぬところに落とし穴を発見します。私が常に考えるのは、結局人はそれぞれ違うのだ、ということです。