2016年9月19日月曜日

自己愛と怒り ①


また新連載の追加である。「自己愛と怒り」。自己愛と怒りについてはこれまで述べてきたことの繰り返しになりそうだ。新たなアイデアはそうそうは出ない。
アンナ・フロイトの伝記を集中的に読んでいるのだが、彼女は数少ない気持ちを話すことが出来る相手であるマックス・アイティンゴンに向けて書いている。「私はいまひとつ自信が持てないのです。身近な人に良くやったと言ってもらえないとダメです。いつになったら自信が付くのか想像が付きません・・・・。」
アンナ・フロイトが30歳、父親フロイトが70歳の頃の話だ。これってまさにコフート的な世界ではないか?
アンナ・フロイトの人生を追っていると感じるのが、彼女自身がまさに「自我の防衛機制」を徹底させた人だということである。彼女は沢山の「秘密」を守るために戦い続けた人だ。彼女が特に憤慨し、怒りを表明したのは、1970年代になり、フロイトの人生そのものに肉薄し、ある意味ではスキャンダラスとも取れる研究を発表した人々、ポール・ローゼンとか、マイケル・スウェールズとか、ジェッフ・マッソンとか、マリアンヌ・クリュルといった人たちである。どうして彼らは父フロイトのことを根掘り葉掘り探りまわるのか、と怒ったわけだ。でも彼女の怒りは、どれほど正当化されるべきなのか? そう、この種の怒りは理屈ではない。防衛反応なのだ。恥をかかされること、秘密を暴露されることに対する反応としての怒り。
たとえばS.フロイトの怒りと比較してみよう。フロイトの怒りはそれとは違った。彼は男性の友人からの手紙の返事が遅れるたびにカッカしていたのである。つまり恥に関連した怒りにも二種類あるというわけだ。ひとつは恥をかかされたことに対する怒り。もうひとつは自己対象機能を発揮してくれない人への怒りということだろう。
コフートが自己愛憤怒について論じた際、そこでの怒りは自己対象機能を担ってくれない対象への怒りという意味を持っていた。しかし恥をかかす相手に対する怒り、というのはこの自己対象の議論と関係あるのだろうか?
わからないなりに次のようなまとめ方をしてみようか。父フロイトの際の怒りは、二者関係的な自己愛トラウマによるもの、娘アンナ・フロイトの怒りは三者関係的な自己愛トラウマによるもの。これでとりあえずどうだろう?