2016年9月17日土曜日

トラウマ概念再々考 ①  書くことと考えること(推敲) ①

トラウマ概念再再考 ①

いや、困った困った。「トラウマ概念の再考」ということで話さなくてはならない。持ち時間は90分。しかし実はこのテーマ、何度も「再考」しているので、新鮮味はあまりない。まあ書いているうちに何とかなるだろう、ということで書き出してはいるのだが・・・・。題名は一応「トラウマ概念再々考」とするか。なんといい加減なネーミングだろう。
最初はヒストリーから入るのだろうか。
1.トラウマ概念の変遷。2.新しいトラウマ理論 3.愛着トラウマの概念 4.すべての母子関係は潜在的にトラウマである。こんな感じだろうか?
一つぜひ取り入れておきたいテーマがある。最近の私のテーマは母親問題である。解離のケースでどうしてここまで母親との関係に苦しむ人がいるのか?本当に母親が悪いのだろうか?でも考えてみれば彼女たちはかつては娘だったはずである。とするとこれはトラウマの連鎖、ということだろうか?今日聴いたある方の話。結婚してほんの数年でなくなった夫の葬式で、喪主として決して涙を流さないように両方の親から言われたという。それから妻は親族や知人の葬式に参列できなくなった。夫の葬式の体験はトラウマとなり、そのフラッシュバックのために一般の葬儀にも出られなくなってしまった。ただしこのトラウマは解離を引き起こしたわけではない。ある感情の表出が抑制されたことで引き起こされるトラウマは、解離原性とは限らないという例であろう。これが4.に相当するが、それは愛着トラウマの先にあるものとして論じられるべきであろう。ということであらすじを書き始める。
   あらすじはこうだ。中世においては、正邪、善悪、といったスプリッティングが支配していた。人に危害を加えたり、嫌悪感を抱かせたり、罪悪感を抱かせたりする存在、すなわちネガティブな感情を与える存在は、すべて悪であり、魔女 witch の仕業だった。そのうち病気、疾患という概念が成立したが、それは基本的には遺伝によるものという考えが一般であった。その意味ではすべては内因性ということになった。内因性の疾患という考え方に非常に特徴的なのは、 その人が免責されないということである。その人が悪い、というのではないとしても、犠牲者という発想はなかった。その人が「悪い」から、その人に責任があるという考え方である。フロイトの出現はその意味では画期的だったと思うのは、彼の発想は、精神疾患は幼児期の体験がある種の原因となっているというものだったわけである。フロイトはこのことをヒステリーに関するシャルコーの考え方からヒントを受け継いでいるということだが、本当にそうかはわからない。それに比べるとフロイトがヒステリーの成因論を整備したことはとても大きな意味を持っていたといえるだろう。ただその中で彼の性的外傷説が後に棄却され、解離の理論も受け入れがたかったということは、外傷説が十分成熟していない段階であったことを示唆するわけである。

書くことと考えること(推敲)①

精神分析との出会い

書くことが好きかと問われれば、ウーン、と考え込んでしまいます。書くのはおっくうだし、面倒くさい。ワープロの出現でかなり楽になりましたが、それでも机に向かって作業をしなくてはなりません。寝転がって原稿を作成することは出来ません。しかし考えることは好きかといわれれば、ハイ、と即答すると思います。考えることは、散歩をしていても、通勤途中でも、それこそ眠りに入る前の数分間でもできます。そしてそれまで疑問に思っていたことについての思考がまとまり、運が良ければ分かった、一歩前進したという気持ちになれるからです。その考えるテーマは主として人の心についてですが、宇宙の由来とか物質の由来、生命の誕生や進化についてなどテーマは様々です。しかし一番面白いのは人の心、自分の心です。そのような私が若い頃、半ば宿命として出会ったのが、皆さんもおなじみの精神分析理論です。かねてから言っていることですが、精神分析理論は人の心を探求する人間が一度は魅了されるものだと考えています。私の研修先の通称「赤レンガ病棟」では、当時静岡大学の磯田雄二郎先生が、私たち研修医に精神分析の手ほどきをしてくださいました。私は研修の一年目でカールメニンガーの精神分析技法論の原書に出会ったわけですが(なんと大学の生協の本棚にあったのです!)が、おそらく短期間にあれほど耽溺した本はなかったと思います。私のその体験は26歳の時のことだったので、それからのおよそ十数年間は、つねに分析理論を考え続けながらの生活であったと思います。その最初の私の姿勢は、とにかく分析理論を学ぶこと、そしてわからなかったり現実の症例とうまく合わないように思える点は、ことごとく私の経験や知識が不足していることに原因があると考えました。そして増々本格的な分析に必要性を感じたわけです。その意味ではアメリカに渡った頃は分析を吸収する時期で、途中からは分析と現実の臨床を徹底的に照合する時期であったと言えるでしょう。
ただし私が精神分析理論に接して感じたのは、私には難しい理屈がよくわからないということだったのです。精神分析研究を読んでも、難しいことばかり書いてある。フロイトの現実神経症と精神神経症などの分類がわからない。その深い意味を知ったのはずいぶん後だったのですが、そのころはこんな理屈がわからないのは勉強不足だと自分を叱咤激励していました。しかしフロイトの女性のエディプスコンプレックスの理論などになると、途端に訳が分からなくなってくるところがありました。一度は飲み込んだつもりでも、その当時の臨床体験にそぐわないからすぐ忘れてしまうのです。そこから私の長い精神分析を見極める旅が始まったのですが、それが結局17年間のアメリカ生活の最終目的でした。
私の精神分析理論とのかかわりはいろいろなところにすでに書いていますが、考えること、書くこととの関連で触れておきたいことがあります。
私はアメリカでの精神分析理論に触れてその難しさに音をあげたくなりましたが、ふといくつかの素朴な疑問が浮かび上がり、それを文章にしてみることを考えました。それは簡単に言えば、「分析においては、治療者の自己開示にも治療的な意味がある場合があるのではないか?」ということと「精神分析には、恥の感情がほとんど扱われていない」ということでした。ごく自然な発想でしたが、私が分析を十分に理解していないのかとも思いました。しかし思い切って論文にして、精神分析研究に投稿してみました。1990年代の前半のことです。すると当時の分析研究の先生方はよほど寛大だったのか、それが原著論文として採用されたのです。「治療者の自己開示」、「続・治療者の自己開示」、「精神分析における恥」、「精神分析における恥その(2)」「精神分析における恥その(3)」「精神分析における愛他性」、「解離性障害の分析的治療」、その続編など、私は10編以上の原著論文を掲載していただくことになり、その上1995年には学会奨励賞(山村賞)をいただきました。分析研究は私にとっての大恩人だったのです。しかしこれは今から考えてもある意味では驚くべきことでした。私が原著論文として発表することがいかに難しいかは、私がのちに編集委員を務めるようになって分かったことです。ハチドリはその羽ばたきが自分の体を支えられないと知った途端に飛べなくなる、という都市伝説がありますが、わたしも原著論文は簡単に書けないということをもし知っていたら、途端に投稿できなくなっていたと思います。無知とは恐ろしいですね。その頃は受理する基準が甘かったのかと思いますが、当時でも分析研究に掲載される、私のもの以外の論文はチンプンカンプンでした。でも私は精神分析の理論を知り尽くす必要など決してなく、私なりの視点で精神分析と関わっていいのだ、ということを理解したのです。
当時私はアメリカで、自分の日本語アクセントの強い、ボキャブラリーの少ない英語でも精神科医としてやっていけるんだ、という体験を持ち始めていたので、私にとってはこの体験は同時に起きていたことになります。
結局私の中でいつまでも本流にいない、よそ者感、偶然にこのような受賞の場にいるという感覚はずっとついて回っているのです。


書く、ということと、知られ、認められるということ

さて私は基本的には書く作業は自己愛的なものだと考えています。それを読者に理解してほしい、共感してほしいと思いから書くという部分があるのは確かなことだと思います。しかしここで注意深く区別しなくてはならないと思うのが、自分の考えを表現するということと、他人に認められ、分かってもらえるということには違いがあるという点なのです。(ここで読者として自分を含めると話が複雑になるので、一応読者を他人に限定して考えます。)
実際文章を発表し始めたころは、私はその両者をあまり区別していなかったように思います。私は出版されるということは即、不特定多数の人に読んで理解してもらえることだと思っていました。大げさに言えば、論文が受理され、専門誌に掲載されることで、次の日から世界が変わる、くらいのことは思っていたのです。しかし論文が何度も掲載され、本が出版されるという体験を一定以上持つと、書く、出版する、ということと売れる、読まれるということが全く別の問題であることがわかります。しかしたとえこの頃の無知な自分が、出版するということと読まれ、知られ、あわよくば認められる、ということが同時に起きると信じていた時期でも、書くという作業と、知られ認められるということが別物であることは分かっていたつもりです。

もう少し具体的に述べてみましょう。書くという作業は自分の中にあるものを表現するプロセスです。それは思いが言葉に載せられているか、あるいは思い以上のものがそこに自然と宿るのかを見届ける息づまる瞬間でもあります。そしてそれは「わかってもらえるだろうか?」「受け入れてもらえるだろうか?」という懸念とは一応切り離されたプロセスなのです。
 たとえば絵をかく人が、あるいは木を彫る人が他人から「どう見られるか」を気にするでしょうか? 少なくとも制作の途中ではあまりそのようなことを考えないと思います。筆を振るう時は、自分の中にあるものがいかに表現されていくかに集中するわけです。もちろんそれが出来上がった後はいくらか体裁を考えることになります。きれいな額に入れることも考えるでしょう。でもとりあえずは自分の考えが、気持ちがちゃんと表現されているかに専念するわけです。もちろん紡ぎだされる文章や、描かれる絵が大衆に受け入れられるのであればそれに越したことはありません。場合によっては常にそれを意識せずにはいられない状況もあるでしょう。売れっ子作家や漫画家が具体的な注文を受けて書いている場合にはそのようなニュアンスがあるかもしれません。しかし基本的には書くことにはそれ自体の喜びがあり、そこであえて誰かのために、あるいは誰かに向かって書くとしたら、それは自分なわけです。自分が書き、それを同時に読み、味わい、納得するように書いていくのです。
さてこのように書かれた文章は、当然ながら悩ましい問題を突き付けられます。論文なら受理してもらえない、本なら編集者が首を縦に振ってくれない、ということが起きる。カミさんに読んでもらおうにも、目を通してすらもらえない。学生なら担当教授に真っ赤に添削され、書き直しを命じられるということになります。自分という読者が感動を覚えている作品が、他の誰にも見向きもされないということが起きてきます。おそらく世の中にはそのような体験から、さっさと書くことをあきらめてしまう人がたくさんいると思います。
ちなみに私にとっての書くことは、実はこのマーケティングの問題をあまり考えなくてもいい恵まれた環境にあると言えます。一つには書くということが比較的容易に受け入れられるだけの能力があることなのでしょう。私の実に限られた能力のうちの一つです。(私のこれまでの人生で、普通にしていても人並みにやれることがあったのはたった二つです。一つは書くこと、もう一つはトランペットを吹くことです。)

マーケティングを考えなくてもよい、もう一つの理由もあります。それは私の書く本が専門書であるということです。少なくとも私の書く本は全然売れていません。しかしまったく売れない、というわけではなく、しかしおそらく第2刷くらいまでは行く程度には売れるのです。それは感謝したいと思います。私の本はだから学術書としてそこそこ売れるので、出版社も付き合っていただけるのです。しかしそれ以上のヒットは残念なことですが、ありません。もちろん本を出す時は、それがたちまち話題になるというようなファンタジーを一瞬は持つものです。しかしそれはことごとく裏切られるため、期待をしないことが自分の精神衛生上ベストなのです。出してもらうだけで満足。その上売れるなんてことがあれば感謝以外の何物でもありません。