2016年9月9日金曜日

1½ 章 ③

快イコール不快の低減、ということでいいのではないか?

さて、ここで人はこう問うかもしれない。「快感原則」と「不快原則」は別々に必要なのだろうか? 快イコール不快の低減、ということでいいのではないか?私はこのような質問をする読者に拍手を送りたい。その通りなのである。第一にフロイトはそう考えた。「赤ちゃんだって、生れ落ちてから、おなかがすいて、おしっこがたまってきて、ウンチをしたくて・・・・という風に不快からスタートするではないか。」食べる快感だって、「おなかがすいた!おっぱいがほしい」という我慢や不快があったからこそ感じられるのではないか?ウンチをする、おしっこをする快感はそれを我慢していたからではないか?とフロイトは考えたはずだ。そしてこれらは皆正しい疑問なのだ。快はおそらくそれを得られないことを我慢した末に得られる、つまり不快が先行していたのだ、という理論はそれなりに説得力がある。皆さんだってそう考えているかもしれない。
 昔精神病理の安永浩先生という大変偉い先生がおられた。精神病理学の大家である。その先生にこの点を尋ねてみたら、こともなげにおっしゃった。「だって快は緊張の放出、ということでしょう?フロイトが言っていたように…。」
私はこれを聞いて、心のエキスパートともいわれる人たちの発想もフロイトと変わっていないことを知って驚いた。つまり「快=不快の解消」説はそれほど常識的なのだ。
 さてこの点についての
私の意見は以下のようになる。
「すべては報酬系の発見により決着がつきました。脳にあるのは快、不快の連続的なダイヤルではありません。そのダイヤルとは、例えばゼロ以下にすると、つまりマイナスにしていくと苦痛になり、ゼロで何も感じず、プラスに行くと快楽になる、というダイヤルです。似たようなものだとこんな感じでしょうか?
 
つまりそこがマイナスの方に刺激されると不快になり、プラスの方に刺激されると快になる、という装置だ。アメリカのエアコンの目盛りはこんな感じだった。
でも実際の脳を開けてみると、(電極を刺してみると)そうではなかった。そこには二つのスイッチがあったのである。一つは快のスイッチ、すなわち報酬系。そうしてもう一つは不快のスイッチで、実はこれは脳のかなり広範囲に広がっている。脳の大部分は、そこを刺激されると不快になる部分、いわば「不快系」ということが分かった。スイッチで示すと次のようになるだろう。(つづく)