これらの二つのメーターが示す違いは明白であろう。
後者の場合は、ある一つの刺激は、快楽でも苦痛でもありうる。例えば皮膚をやさしくなでられると心地よいだろう。しかしあまりしつこくなでられるとヒリヒリしてくる。その場合にはそれまでの心地よい感覚とは別に痛覚の刺激が加わったことになる。もし痛覚だけがブロックされていたら、それほど不快ではなく、心地よさが残るかもしれない。それは上のメーターのように、快のメーターは25なのに、不快メーターが50で、プラスマイナスでプラス25の不快、ということになるのである。そこで「手を撫でるのをやめて頂戴!」となるわけだ。結局はプラスマイナスでどちらに傾くかが、その行動を続けるか中断するか、回避するかの決め手となるであろう。しかしいずれにせよ重要なのは、最終的なプラスマイナスが行動を決めるとしても、一つの原則はもう一つの原則を無理やり引っ張って切る、ということだ。快原則は優しく撫でて欲しい。不快原則は痛いのは回避したい。そして最終的に掻くのを続けるとしたら、それは痛いのを我慢している、ということになる。不快原則を無視して、あるいはそれにもかかわらず、ということになる。私が生命体においては、「快感原則と不快原則が綱引きをしている」と表現するのは、このような事情である。
行動とは「快の追求+不快の回避」である
ところでこの快感原則と不快原則との綱引きの関係についてはウォーコップ・安永の説というものがある。彼らは「すべての行動は、快の追求と、不快の回避の混淆状態である」という理解を示したのだ。(安永浩(1977)分裂病の論理学的精神病理-「ファントム空間」論-.医学書院、東京) ちなみにこの提言は英国の不思議な学者ウォーコップが示した人間観を日本の精神医学者安永浩博士が継承しつつ発展させたものだが、これは上に述べた「快感原則と不快原則との間の綱引き」という考えにかなり近いことがわかる。
本章でウォーコップ・安永の理論の詳細に立ち入る余裕はないが、ウォーコップの理論をひとことで言えば、人間の行動は必ず、それを「したい部分」と、「しなくてはならないからする部分」がまじりあっているということだ。彼らは前者を「生きる行動 living behavior」、後者を「死・回避行動 death-avoiding behavior」と名付けている。ただしウォーコップ・安永は別に本当の「死」を回避すると言っているわけではなく、実質的には不快、苦痛を回避することと言い換えることが出来るので、誤解を避ける意味でも本書では、「不快回避行動」と呼び換えておこう。
この提言は私たちの日常生活に照らせばかなり妥当である。というよりそうでない行動を見つけることが難しい。どんなにその行動に喜びが伴っても、義務の部分は何らかの形で入り込んでくるものだ。
例としてウォーキングをあげよう。めんどくさがり屋のあなたは、それが健康にいいと聞いて早朝の30分をそれに充てることにする。もちろんそれを心地よいとかんじる部分もある。しかし純粋に楽しめていない。義務感に駆られてやっているという部分が多少なりともある。義務感に駆られているというのは、それを「しない」ことによる後ろめたさや罪悪感を回避するためにそれを行うということである。「不快回避行動」とはそれを少し極端な形で言い表したものなのだ。
例としてウォーキングをあげよう。めんどくさがり屋のあなたは、それが健康にいいと聞いて早朝の30分をそれに充てることにする。もちろんそれを心地よいとかんじる部分もある。しかし純粋に楽しめていない。義務感に駆られてやっているという部分が多少なりともある。義務感に駆られているというのは、それを「しない」ことによる後ろめたさや罪悪感を回避するためにそれを行うということである。「不快回避行動」とはそれを少し極端な形で言い表したものなのだ。
このことをこれまで見た快感原則と不快原則の議論に引き付ければどうか?「不快回避」の部分は、見た目は不快原則に従った行動とは似て非なるものだということがわかる。慧眼なる読者ならお気づきであろう。「不快回避行動」の場合、それは散歩を継続するという方向に働くが、不快原則の場合はそれは散歩をやめる方向に綱を引くことになる。前者は、「散歩はしないことに伴う苦痛から逃れるためにせよ」(「散歩はやらないよりはマシだから続けよ」)であるのに対し、後者は「散歩は苦痛だからやめよ」と当人に働きかけるだろうからだ。でも行動する場合は、結局は不快原則にもかかわらず行うという意味では、両者は同一と考えて差し支えないだろう。しかしここで一つ注意するべきことがある。それは
「不快の回避」は自然に「快の追及」に変質することが多い
ということである。下線まで引いて強調しているが、実は当たり前のことでもある。それは私たちの心の未来を予期するという働きからくる。不快を回避しようとすると、回避できない場合に実際に不快を体験するときのことを思い浮かべることになる。それは不安を呼び起こすだろう。すると今度はその行動を行うことは不安を回避できたという意味での安堵感、喜びを生む。こうしていつの間にか「快の追及」になるのだ。
たとえば散歩の例を思い出そう。あなたは実は「三日坊主になるのではないか?」と案じている。「今日、散歩に行く気にならずにサボったら、俺ってダメ人間だよな。」すると無事に散歩をし終わった際の「今日もルーチンをこなした」「体にいいことをきちんとした」という達成感は喜びになるだろう。「いやな事を渋々やった」(苦痛の回避)は「達成した!」(快の追及)に変わったというわけである。