2016年9月8日木曜日

1½ 章 ②

「辛いものハイ」これを書かなきゃ

快感原則と不快原則

人は「究極的に快感中枢の刺激を求めている」というテーマについて論じている。人は突き詰めれば快感を追求して動くのであり、理屈で動くのではない。それは私たちにとって一種の宿命なのだ。そしてありがたいことに、脳の中でここが活動すれば快感が得られる、という場所がわかっている。それが脳の深部にある報酬系という場所であった。そこを電気刺激すると、スイッチが入ったみたいに心地よさを感じるのである。もちろん何が人の報酬系を刺激するかということが、実はきわめて込み入っているのは当然である。
ここにある原則を提示しよう。
快感原則:「人(動物)は快感を求める」
これは少なくとも私たち人間にとっては、この上なく正しい原則のように思える。何よりも報酬系の存在がその証拠になっているのだ。
報酬系が発見される前から、人は快感を求めるという原則を提唱する人はいた。その代表は言うまでもなく、精神分析の祖、シグムンド・フロイトである。
フロイトは人間の心の基本的な在り方を「快楽を求め苦痛を避けること」とした。これが彼の快感原則である。そして必要があればその快を延期することもあるとし、それを現実原則とした。この概念は、実はフロイトがその理論の根拠としてしばしば引用した、グスタフ・フェヒナー(FechnerG. T. 1848)が作り上げた概念であった。
フロイトは、この快感原則の信ぴょう性にはかなり自信を持っていたことがうかがえる。フロイトは人の心はある種の流体の流れのようなものであるという仮説を信じた。彼が信奉していたフェヒナーも、そのような考えを持つ人々の集団、いわゆるヘルムホルツ学派に属していたのである。
フロイトは心はある種のエネルギーの流れ(リビドー)が滞って圧力が高まることが不快、それが解放されるときに快楽が体験されると考えた。「精神現象の二原則に関する定式」と (1911)という論文に代表される主張である。
その意味で彼の理論は不快の定義から出発していたことになる。なぜならリビドーの滞りによる不快が最初にないと、それが解き放たれた際の快も生じないことになる。だからフロイトが生きながらえて、オールズとミルナーのネズミを使った実験の話を聞いたら、「え、ウソー!聞いてないぞ!」と反応したはずである。脳の一部のスイッチを押すと快が得られる、というほど単純なものではないと考えていたからだ。
 ただしフロイトの「不快の解除こそ快である」という考え方は、おそらくオールズ・ミルナーの実験までは皆が漠然と考えていたことであり、私たちの常識にもある程度合致する内容であった。快がそのものとして脳に生じるとしたら、そのような部分を求めて様々な実験が行われたはずだ。ところが肝心のオールズ・ミルナーもそれを期待していなかった。彼らはネズミの網様体賦活系というところを刺激し、不快刺激を与えようとしていた。ネズミがあるコーナーに来ると刺激をすることでそこに来ないようにしたのだ。ところが電極の先が曲がってしまって、私たちが後になって知ることになる報酬系を刺激することになり、ネズミは「もっと刺激して!」と言ってそのコーナーに戻ってくるようになってしまった。Woodrow  Barfield 2015Cyber-Humans: Our Future with MachinesCopernicus.)
 そう、その頃の心理学では、脳に刺激をすると快感になる部位を想定していなかったのである。ということはフロイトと同じ考え方、つまり快はプライマリーなものとして、つまり快そのものとして単体として存在するのではなく、不快と対になり、つまり不快の除去により生じると考えたわけである。
そこで以上のことから言えること。

「人(動物)は快感を求める」(快感原則)だけでなく、もう一つ必要だということになる。それは「生命体は不快(苦痛)を回避する」というものだ。(不快原則)