2016年9月10日土曜日

1½ 章 ⑤

「不快の回避」を「快の追及」に変えるのは想像力である
  
ところで「すべての行為は快の追及と不快の回避の二つの要素からなる」という提言には、誤ってはいないものの、ちょっとしたトリックがある。それは「不快の回避」の一部はすでに、事実上快の追求と同じであるものも含まれるのだ。だからこの提言の一部はトートロジーだと言うわけである。少しフクザツだが少しお付き合いいただきたい。
 ある行為を行うということは、「その行為を行わないという行為を行わないこと」でもある。要するに、それを「我慢することを止める」ということだ。ウォーキングに出たくてウズウズしている人なら、予定した時間になるまでは、「すぐにでもウォーキングを始めたいのを我慢する」という不快な行動を続けていることになる。すると実際にウォーキングを始めることは、ウォーキングの「お預け状態」を中止することでもある。するとある行為にともなう快のリストには、その行為をしないことによる不快を回避すること、という項目は必然的に含まれることになる。それも結局は「不快の回避」の一つの形といえるのだ。
このように考えると、不快の回避にはグラデーションがあり、それ自身が不快な「不快の回避」から、しないではいられない、つまりそれ自身が不快ではない「不快の回避」までさまざまなものがある。しかも後者から前者への移行は、自然に、あるいは私たちの精神の力で、想像力で可能だからだ。私たちの想像力が、不快の回避から新たな快を生むことが出来る。それをちょっと奇をてらった言い方ではあるが「快の錬金術」と称したい。
わかりにくいのでもういちど整理しよう。
ウォーキングをすることの快、しないことによる不快の回避。両者は時々、区別がつかないほど似ることがある。ウォーキングをすごくしたい場合には我慢をすることが苦痛だから。これは当たり前でトートロジカルとも言える。(ウォーキングをしたい≒ウォーキングをしないではいられない)。でもウォーキングに気が進まないけれどやる、という場合にはいろいろあると言うことだ。そしてそこで決め手となるのが私たちの想像力だ。
たとえばウォーキングを嫌々ながらするのが、「しないと三日坊主といわれるから」、というのはどうだろう? ここにはウォーキングに関する積極的な快はあまり存在しない。ウォーキングをしても、そう宣言したことをやっている、というだけでそれ以上に積極的な評価を受けるわけではないのである。ただやらないと人から駄目人間と思われるというだけ。でも理論的な思考や想像力を働かせて最終的に選択するものだ。その想像を必要とするという意味では心の労働ともいえる。ウォーキングをしないことの苦痛は将来生じるのであり、今は困ることではない、でもよくよく考えると、やはりウォーキングをしないことはマズイ、だからウォーキングをするというわけだ。これは「不快な『不快の回避』」と呼ぶことができるだろう。「不快の回避」そのものがつらい、という意味だ。一方ウォーキングをしたくてたまらない場合は、「不快の回避」は決して不快ではない。むしろ望むところだ。こちらは「快楽的な『不快の回避』」である。ここに違いがある。
 しつこいようだが説明を追加しよう。わかりやすいタバコの例で。
タバコを吸い続けると癌になるとテレビでやっていた。でも今、この一本を吸う事で突然癌になるわけではない。ヤメたくないなあ。長年吸っていたんだし。でも止めると決めたし。これが不快な「不快の回避」。こちらは止めることのメリットが実感できず、しかし過去にすべきではないこと、長期的には不快であるから止めるべきと、自分で認定し、評価を下したことだからというそれだけの理由で回避する不快だ。ではこれを不快な「不快の回避」から、不快ではない「不快の回避」にするのはどうしたらいいだろうか? それは数日前に見た「タバコを吸うと癌になるぞ」というテレビの内容を思い出し、あるいはさっき吸ったタバコのタール成分が肺の細胞に突然変異を起こしたことをありありと想像することである。一種のイメージ療法である。これは実は副流煙を毛嫌いする人が皆自然と頭の中でやっていることなのだ。「今、となりの喫煙者の口から出て目の前を漂っているこの煙を吸い込むと、肺に入って、肺が黒くなって・・・・。オー、イヤダイヤダ。」もしそれを喫煙者自身がありありと実感したら、目の前に用意し、これから吸おうと思っていた一本をゴミ箱に捨てることは、鞭を持った人に追いかけられるときの気持ちと似て、特に苦痛を伴うわけではなく(恐怖はあるだろうが)、むしろ反射に近い行動になるのだ。
少し応用問題だ。「あなた、ウォーキングに行くんでしょう?」とカミさんに怒られてしぶしぶいく、という例はどうだろう?(ナサケナイ例だ。) おそらくカミさんとの関係性が重要になるだろう。ウォーキングを止めることのデメリットがあることを自分で想像し、しぶしぶやるのではなく、カミさんに脅されてウォーキングをするということになるのだ。そこに一種の「恐怖」が介在するために、自動的、反射的なものに近くなり、先ほどのスペクトラムでは左端からは一歩右にずれることになる。この一番右端の「不快の回避」は、もう義務感だけ。そのデメリット自体が実感を伴わない、記号化したものであることに注意すべきであろう。そして私はこの種の「不快の回避」こそが一番不快であろうと思う。「不快の回避」のメリットが実感される度合いにしたがって、この端から離れ、カミサンに起こられる、まさに「鞭を持て追われる」状態になるが、これは「快」にかなり近くなる可能性がある。なぜなら逃げおおせた場合には、恐怖から解放されるからだ。こうして不快の体験の際は、不快が払拭されること自体を切望するようになる。すると苦痛の終わりは、事実上「快」に変質するからだ。
ただしこの「不快の回避軸」上のどこにあるかという問題と、その時の不快の度合いは必ずしも一対一対応することは出来ない。タバコの例だと、「止めたと決めたから」というだけで喫煙できないことの苦痛(一番左端)は、「タバコは怖いから」(少し右側)よりは大きいだろう。でもたとえば修士論文を書くというのはどうだろう。まだ締め切りが先(左端)だとダラダラ書けるから、さほど苦痛ではない。しかし締め切りが近づくと、締め切りに遅れることの恐怖も実感されることになり、軸上の右に移動するわけだが、どんどん苦しくなってくる可能性がある。それは論文を書くスピードも速めなくてはならないからだ。私は個人的には、締め切りが迫って急いで仕上げなくてはならない論文を書いているときが一番の苦痛である。その苦しみを味わうくらいなら、早めに準備する。
 ただし切羽詰って書いているうちに、少し躁気味になり、ノッてくるということが起きると話は違う。今度はそれ自身が楽しくなるという人がいる。ここが人間の複雑なところだ。人間の行動は、突如としてそれそのものが快楽の源泉となったり、不快の源泉になったりする。