2016年9月12日月曜日

1½ 章 ⑥、書くことと考えること ②

フロイトの「現実原則」も侮れない

さて本章の最初に少しだけ紹介した、フロイトの「現実原則」について考えよう。これは快楽原則の際の快の体験を必要に応じて延期する原則である、と紹介したが、何のことはない、快楽原則と不快原則の両方を有している人間のあり方をそのまま表現しているに過ぎない。
ウォーキングの例で考えよう。もし「健康になりたい」がその最終目標であれば、当然一回のウォーキングでそれをかなえることは出来ない。せいぜいウォーキングそのものが心地よい、というくらいの快しか味わえないのだ。もちろん「ああ、これで一歩健康になれた!ジーン」という喜びもないわけではないが、それはむしろ数日前に見た健康番組の体験を思い出すことによりやっとよみがえらせることが出来る気持ちだ。あの時はつくづく自分の生活の放埓さを反省し、また恐ろしくもなった。成人病のリスクは非常に高いと自覚した。そしてその時やっと「ああ、健康になりたい」と思えたのである。とすれば毎日のウォーキングは「不健康さ、成人病の危機」の恐ろしさからの回避というニュアンスの方が大きいということになる。ここでの決め手は数日前のテレビ番組を回想し、自分の体の中で潜行して進行している成人病の恐ろしさを想像することなのだ。
もう少しわかりやすい例で細くしよう。いつかユーチューブで印象深いものを見た。たくさんの犬の「お預け」のシーンである。20匹ほどの犬が、自分たちの前にある複数の餌の入ったボールを前にして、ムチを持った飼い主の「食べてよし!」の合図を待っている。ある犬はすでによだれをダラダラ流している。大抵の犬は居ても立っても居られない様子でジタバタしながら、でも決してボールに口を近づけようとはしない。もしそんなことをしたら、飼い主のムチが飛んでくることをよく知っているからだ。(もちろん年月をかけてそのように調教してあるのである。)そして犬たちは、飼い主の合図により一斉に餌のボールに突進する。これを一匹の犬ではなく、20匹以上の犬が行うから壮観である。人間ではなく、動物が見せる快の遅延の例なのだ。
 ここで犬たちの報酬系で起きていることを考えてみよう。目の前に餌の入ったボールを出された時点で、快感を査定すべく想像力が働く。「やった、これから餌だ!」という感激である。そして同時に不快原則も働いている。お預けに反してえさに飛びついたら、飼い主にムチ打たれることを犬たちは良く知っている。それを想像した「イタい、コワい!」感もあるだろう。両者を比べて後者の方が凌駕しているから犬は「お預け」を選択するのだろう。もし逆の関係なら、ムチが身体に食い込み、皮を引き裂くむ苦痛に耐えながらも餌に食らいつくことになるのだ。ということは犬の脳内には、そして人間の脳内においては、快感原則と不快原則が常に競合し、最終的に勝ったほうを選んで行動を決めていることになる。それが「現実的な路線を選ぶ」という意味ならまさに「現実原則」であり、それは以下のような式に表現することが出来るというわけだ。

「快感原則」+「不快原則」=「現実原則」

快の錬金術は前頭葉のなせる業である

先ほど現実原則における想像力の重要さについて少しだけ触れたが、これは極めて重要な問題点である。
先ほどのウォーキングの例で、それをもっぱら義務感から続けるという場合を考えた。あなたは「面倒くさいなあ」とか「本当はこんなことは必要ではないんじゃないか?」とか思いつつ、「でもこのままだとまた三日坊主になってしまうかもしれない。」と考え直していやいやスニーカーをはくという場合である。この種の義務感のみに従った行動というのはかなりの苦痛を伴うわけだが、これをどうしたら楽しいものに出来るだろうか?
ここで考えてみよう。少なくともウォーキングを始めたひと月前は、ウォーキングはさほど苦痛ではなかった。むしろ張り切って「よし、これからは毎日一万歩歩くぞ」と新しいスニーカーを買いに走り、勇んで始めたのである。それはあるテレビ番組を見た翌日のことであった。(また出てきた。)その番組では生活習慣病について特集し、それを見ながらあなたはつくづく自分の炭水化物中心の食生活や運動不足が問題であると思い知らされた。そして番組でゲストの医師が言っていた「このままで行くと徐々にメタボリック症候群がひどくなり、やがて糖尿病や高血圧になり・・・・」という言葉が頭に残り不安と恐怖でいっぱいとなり、さっそく仕事から帰って30分のウォーキングを思い立ったのだ。
最初の23日は、あなたはそのウォーキングに意欲的だった。「自分は健康にいいことを始めたのだ」、「メタボリック症候群に陥る危険を確実に回避しているのだ」と思うことが出来たからだ。しかしその意気込みは徐々に薄れていった。そしてひと月たった今は、ウォーキングの時間が近づくと「メンドーだなあ」とため息をついているのである。しかしそれでもウォーキングを続けるのは、ウォーキングから戻った時にある種の達成感が感じられること、そして「三日坊主にならずに済んだ」という安堵感があるからだ。これまでの議論から前者は快感であり、後者は不快の回避ということになることはおわかりだろう。
さてここでのテーマは、このウォーキングというルーチンを、より快楽的なものにするにはどうしたらいいか、ということだ。そこには想像力が関与している、と述べたが、それはどういうことか? 
 一つには、最初の頃に持っていた不安感を何とか取り戻すという手段がありうる。たとえばあなたがあれほどインパクトを受けたテレビの健康番組をいつも思い出し、あるいは録画をしたものを毎日のように再生し、いかに今の食生活では自分の健康が損なわれかけていて、今すぐにでも生活習慣を変えなくてはならないのかをありありと感じ続けることが出来たらどうだろうか? あなたは自分の生活の不健康さを思うたびに、メタボリック症候群の恐ろしさを感じ、不安を新たにするだろう。すると毎日のウォーキングは、それに対する具体的な対策としての意味を、そのたびごとに感じさせるのではないか?そして毎日のウォーキングに大きな意味付けを与えてくれることで、その不安を減らしてくれることに役立つだろう。
この種の想像力の使い方はそれなりに有効だろうが、それにも限界があるし問題も生じる。日常の雑務に追われて番組のことを思い出すだけの精神的な余裕はないかもしれない。ビデオを何回も見る暇もないだろう。想像力を発揮する為には精神的なエネルギーを要するものなのだ。
 しかし人にはもうひとつ別の想像力の働かせ方もある。いや、むしろ非常に多くの方は、この二番目の形での想像力を用いているはずである。それは「ウォーキングをサボると三日坊主になる」という不快の回避部分を、一種の達成感に書き換えるための想像力だ。ウォーキングを続けることを自分に与えられた宿命として受け入れてしまう。そしてそれを一日一日達成する分をほめてあげるのだ。こうして「不快の回避」の項目の値は減って、より純粋な快の部分が増えていく。これが「快の錬金術」と私が呼ぶものである。そうすることでウォーキングは「より楽しく」なる。努力の名人などと呼ばれる人たちは、大抵こういう錬金術を行っている。そしてその種の高度な想像力を発揮するのは、人間に特に発達した前頭前野である。
ところでこの種の錬金術は、私たち誰でもある程度はその能力を持っている。それは私たちがある程度の喪失体験にはあきらめ、慣れることが出来るからだ。そうするとその喪失が埋められることを獲得として感じ取るようになる。
 たとえばあなたが10万円入りの財布をなくしてしまったとしよう。どこかに落としたつもりになって、もう絶対出てこないとあきらめてしまったとする。その財布が一週間後にソファーのクッションの隙間から出てきた時は、「やったー、10万円ゲット!」となるのである。ウォーキングのルーチンについても、片手間にやるのではなく、自分の仕事の様なものとして受け入れることにより、苦痛度は減り、達成感へと変換されるであろう。
ちなみにこのような変換を行えるためには、ある程度の精神の健全さが必要である。すくなくともうつや強迫を伴っていないということは大切だ。人間はある程度の心のエネルギーがあれば、「しなければならない」ことを、「しないと不安なこと」「すると安心できること」「すると喜びを感じられること」へと変えることはさほど困難ではない。特に「しなければならないこと」がそれほど苦痛なことではなく、多少めんどくさい程度のことなら、いったんそれに集中すると案外スムーズにできたりする。するとその行動自体の快を増すこともできる。面倒くさいウォーキングも、歩き出したら案外楽しい、ということもあるだろう。そして歩き終わった後は「今日もルーチンをこなしていい気持だ」となる。しかしこの種の芸当が一切できなくなるのがうつ病なのだ。うつになると、普段面倒に感じていたことなどは、およそ実行不可能になる。初めても少しも楽しくない。集中力により乗り切る、という力も残されていないのだ。
強迫は強迫でこれまた厄介である。ある行動(強迫行為)をしないことの不安が、理由もなく、病的に襲ってくる。ウォーキングの途中に目に入る電信柱を数えないと不安になり、舗道のタイルを一定の順で踏まないではいられなくなり、それで疲弊してしまったりする。強迫は、まさに自分の生活にかかわる行動のことごとくが「しなくてはならない行動」になってしまう。そしてその「しなくてはならない」リストには、自らの強迫が生み出したさまざまな行動の詳細が付け加わっていく可能性があるのだ。
「不快の回避」の「快の獲得」への転換には、個人の工夫や創造性も発揮される。ウォーキングをした後はカレンダーに大きな丸を付ける、でもいい。新しいシューズを買って、歩きながらその履き心地を楽しむ、というのも悪くないだろう。またそんなお金もなかったら、家族に自慢する、でもいい。(でも家族の誰もほめてくれないとあまり意味ないが。)仕方がなかったら自分をほめてあげる、という方法もある。
このような能力を発揮しているのは、主として前頭葉である。特に後背側前頭前野(dorsolateral prefrontal cortex)は、将来にわたる行動のシミュレーションに携わる部位である。この部分は自分がある事柄をどのように実行していくかのタイムテーブルを作成することに貢献する。努力の天才のありかは、ここら辺にあるのだ。

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ところで「やらなくてはならないこと」を「やると達成感をえられるもの」に変えることは、快を生むことだ、と言ったが、これには補足が必要だ。そもそも両方とも最初から快のリストに載っていたのではなかったか?ということはその総計は変わらないのに、快が新たに生まれる、とは詭弁ではないか、とも言われられかねないからだ。人は他人ないしは環境から何かを与えられることなく、自分から快を新生することなどできるのだろうか? ここのところを最後に考えておきたい。
つまりこうだ。最初はいやいやながらウォーキングを始める。その時は目の前に達成感による快がなかなか見えない。「メタボになるのが嫌だからやろう、と昨日決めたから」とか「三日坊主になるのは嫌だから」という消極的な理由ばかりである。しかしこれも一応快のリストに載っている。不快のリストには山ほどある。かったるい。疲れる。足のウオノメが痛い。巻爪もズキズキする。これだけの逆風で、よくもウォーキングが続けられるものである。しかしこんな感じで日常生活を送っている人は多い。仕事などもこんな感じかもしれない。
このウォーキングが少しでの快の要素を含んでいるとしたら、それはたとえば「ああ、今日はもうウォーキングをしなくてもいい」「今日のノルマは終わった。これから23時間はウォーキングから解放される」という安堵感などであろう。でもそのうち人は「ああ、今日もウォーキングがしたい。」とウォーキングを楽しむようになることもあるのだ。もちろんごく一部の人がこうなるのだが、ある程度の楽しみを感じられるようになる人は結構いるものである。これは大変なことなのか? それともあたりまえのことなのか?
そこに絡んでくるのが先ほど述べた忘却の力である。人は生きていくうえで多くの傷つきや、恥ずべき体験を持つ。それは大きな苦痛を伴う。しかしそれは通常は徐々に忘却されていく。不快はその一部が消失していくのだ。同様のことは快についても同じである。獲得した喜びは徐々に忘却される。そのうち当たり前のようになる。このような忘却の力はもろ刃の剣といえる。私たちを過去の辛い思い出によるストレスから守ってくれると同時に、不幸にもすると言えるだろう。つまり失ったものを再獲得する楽しみに変える力が与えられていると同時に、過去に自分を幸せな気分にしてくれたものが、あっという間に色あせてしまう、ということも起きてしまう。
ウォーキングの例で言えば、健康診断の結果が思わしくなく、日課としてのウォーキングが必要となったということ自身は不快体験であるが、それに慣れるに従い、今度は健康な体を取り返すことへの希望や喜びが大きくなる。
ここで先ほど問題になっている快の新生に戻ってみた場合、これは新生というよりは、実はかなりの部分が「忘却分」として説明できるのではないか、というのが私の主張である。私たちの人生の楽しみは、実はかなり過去に失ったものの痛みを忘却した分からなる。そしてもちろん同じことは苦痛についても言える。



②   書く、ということと、知られ、認められるということ

さて私は基本的には書く作業は自己愛的なものだと考えています。それを読者に理解してほしい、共感してほしいと思いから書くというのは確かなことだと思います。しかしここで注意深く区別しなくてはならないと思うのが、自分の考えを表現するということと、認められ、分かってもらえるということには違いがあるという点なのです。
実際文章を発表し始めたころは、私はその両者をあまり区別していなかったように思います。私は出版されるということが不特定多数の人に読んで理解してもらえることだと思っていました。大げさに言えば、論文が受理され、専門誌に掲載されることで、次の日から世界が変わる、くらいのことは思っていたのです。ところが論文が何度も掲載され、本が出版されるという体験を一定以上持つと、書く、出版する、ということと売れる、読まれるということが全く別の問題であることがわかります。しかしたとえこの頃の無知な自分が、出版するということと読まれ、知られ、あわよくば認められる、ということが同時に起きると信じていた時期でも、書くという作業と、知られ認められるということが別物であることは分かっていたつもりです。

もう少し具体的に述べてみましょう。書くという作業は自分の中にあるものを表現するプロセスです。それは思いが言葉に載せられているか、あるいは思い以上のものがそこに宿るのかを見届ける息づまる瞬間でもあります。そしてそれは「わかってもらえるだろうか?」「受け入れてもらえるだろうか?」という懸念とは一応切り離されたプロセスなのです。それはたとえば絵をかく人が、あるいは木を彫る人が「どう見られるか」を気にするかという話と同じです。筆を振るう時は、自分の中にあるものがいかに表現されていくかに集中するわけです。もちろんそれが出きあがった後はいくらか体裁を考えることになります。きれいな額に入れることも考えるでしょう。でもとりあえずは自分の考えが、気持ちがちゃんと表現されているかに専念するわけです。もちろん紡ぎだされる文章や、描かれる絵が大衆に受け入れられるのであればそれに越したことはありません。場合によっては常にそれを意識せずにはいられない状況もあるでしょう。売れっ子作家や漫画家が具体的な注文を受けて書いている場合にはそのようなニュアンスがあるかもしれません。しかし基本的には書くことにはそれ自体の喜びがあり、そこであえて誰かのために、あるいは誰かに向かって書くとしたら、それは自分なわけです。自分が書き、それを同時に読み、味わい、納得するように書いていくのです。
さてこのように書かれた文章は、当然ながら悩ましい問題を突き付けられます。論文なら受理してもらえない。本なら編集者が首を縦に振ってくれない。カミさんに読んでもらおうにも、目を通してすらもらえない。そうなると担当教官に真っ赤に添削され、書き直しを命じられるということになります。自分という読者が感動を覚えている作品が、他の誰にも見向きもされないということが起きてきます。おそらく世の中にはそのような体験から、さっさと書くことをあきらめてしまう人がたくさんいると思います。
ちなみに私にとっての書くことは、実はこのマーケティングの問題をあまり考えなくてもいい恵まれた環境にあると言えます。一つには書くということが比較的容易に受け入れられるという幸運があることなのでしょう。私の実に限られた能力のうちの一つです。(私のこれまでの人生で、普通にしていても人並みにやれることがあったのはたった二つです。一つは書くこと、もう一つはトランペットを吹くことです。)
マーケティングを考えなくてもよい、もう一つの理由もあります。それは私の書く本が専門書であるということです。少なくとも私の書く本は全然売れていません。しかしまったく売れない、というわけではなく、しかしおそらく第2刷くらいまでは行く程度には売れるのです。それは感謝したいと思います。私の本はだから学術書としてそこそこ売れるので、出版社も付き合っていただけるのです。しかしそれ以上のヒットはありません。もちろん本を出す時は、それがたちまち話題になるというようなファンタジーを一瞬は持つものです。しかしそれはことごとく裏切られるため、期待をしないことが自分の精神衛生上ベストなのです。出してもらうだけで満足。その上売れるなんて感謝、です。