2016年8月6日土曜日

推敲 5 ②

恋は盲目ということの意味

ゼキ先生の研究の中で最も興味深いのは、恋愛がいかに盲目か、という点について、脳科学的な見地から光を当てたことである。ゼキ先生は、恋愛の状態にある人の脳のどの部分が興奮しているかと同時に、どの部位が抑制されているかについても調べた。彼は、恋愛の際に抑制されているのは前頭前野、頭頂側頭連合野、側頭頂の3つの部分であるとした。そしてこれらはなんとメンタライゼーションに関わる部位であるという(ibid, p.25)。メンタライゼーションとは、改めて説明する必要もないかもしれないが、他人の心を感じ取り、理解する行為であり、能力である。他人への共感や同情を可能にする基本的な能力と考えてもいい。そしてそれが恋愛状態においては抑制されていると言うのだ。そしてここらへんに恋が盲目であるということもかかわっている。恋をしている時、本当は相手が見えない状態になっている。相手の気持ちをわかる能力(メンタライゼーション)が低下しているからだという。
この研究結果は、ある50歳代のストーカーの男性が語っていた話を思い起こさせる。彼は同じ部署の20歳代の女性の新入社員に付きまとったのだが、こんなことを言っていたという。
「彼女が僕にお茶を入れてくれる仕草がとても優しく、絶対彼女は私に気があると思ったのです。」「彼女がバレンタインデーにチョコレートをくれたので、もう間違いないと思いました。彼女はほかの社員にも配っていましたが、私にだけは本気でチョコレートを渡してくれたとピンときました。」「誘って断られても、本当は彼女は私を好きなのだと思っていました。『どうして自分の気持ちに素直になれないんだろう』と思っていました。」
わかるだろうか。このメンタライゼーションの完璧な機能停止が。
もちろん実際に恋愛状態にある私たちは、ここまで相手の気持ちが見えなくなるわけではない。ただし相手の気持ちを繊細に感じ取り、「相手から見た自分はどのように映っているのだろう?」という視点が弱くなるという可能性はある。というよりは「相手も私のことを好きなはずだ」という前提、ないしは思い込みは、実は恋愛の本質にあるのかもしれない。「あなたは僕を好きになる運命にあったのだ」というオーラは、実は恋愛を成立させる一つの大きな要素になっている可能性がある。考えても見てほしい。世の中には多数のカップルが成立しているが、それらがいずれも出会った瞬間にお互いに「ビビッと来た」、とは考えづらい。どちらかが「ビビッと」来て、相手に何らかのアプローチをしたはずである。「この人も私を好きかも知れない」という過剰な憶測を持って。そしてその際は「本当は私のことをどう思うのであろうか?」という冷静な判断能力やメンタライゼーション機能は低下している。それが「ひょっとしたら、相手が考えているように、私も相手のことを好きなのかもしれない。」と思う気持ちを高める。精神分析では、これは「投影」としてよく知られている心の動きである。そしてこのメンタライゼーションの停止が、結果的に恋愛のカップルを成立させやすいのではないかと考えるのは、あながち極端な発想ではないのではないか。

報酬系と「オキ、バソ」

恋愛と報酬系の話は、重要なホルモンのテーマに結びつく。オキシトシン、バソプレシンだ。むかし生理学の授業で、脳下垂体の後葉というところから分泌される、互いに構造のよく似たタンパクホルモンがある、と教わった。前者は子宮の収縮に関連し、後者は血圧上昇に重要な働きを持つ、ということであったが、それ以上の詳しい話はあまりなかった。もう30年以上も前の話だ。その頃はあまり気にしていなかったが、最近この二つと報酬系の関係が盛んに論じられている。
 話のキモは、この二つのホルモンのリセプター(受容体)が報酬系にたくさんあるということだ。動物の交尾の際には、例によって報酬系でドーパミンが大活躍するが、このドーパミンが両ホルモン(オキシトシン、バソプレッシン。今後長いので、「オキ、バソ」と呼んでしまおう。もちろん一般的にこのような呼び方はない。本書だけの約束である)の分泌を促すが、そこでそこであることが促進されるという。それは交接の際の相手を記憶に焼き付けることだ。
この話をもう少し詳しくするために、有名なハタネズミの話をする必要がある。草原ハタネズミと山岳ハタネズミのことは御存知だろうか。見た目はほとんど区別がつかないが、前者はモノガミスト(いわゆる一穴主義、一人の相手と一生を共にするタイプ)、後者は遊び人(遊びネズミ?)である。なぜ草原ハタネズミはモノガミストなのか?それは彼らの報酬系にオキ、バソの受容体が豊富だからだ。すると一度交尾すると相手のことを忘れないからであるという。
ゼキ論文はこれに関する実験を紹介している。ある草原ハタネズミを一緒にして、ただし交接が出来ないようにして(ひどいことをするものだ!)、この二つのホルモンを注射すると、「付き合っていない」のに、見事にモノガミストになるという。これに関しては動物実験があり、例えば羊が赤ちゃんを産んだ時にもオキ、バソが分泌されてするとその赤ちゃんを忘れなくなるが、それを阻止すると、赤ちゃんを覚えられない、という。
 ここで私は予言したい。初期の「刷り込み」(ガンやカモが、生まれた時に見たものに刷り込まれて、例えば人の後を追ってしまう、など)にも絶対にこれらのホルモンが関係しているだろう。ガンやカモが生まれた時には、オキ、バソが盛んに分泌されて、だからその時見たものを覚えるのだ。これってすごくないだろうか?一目ぼれだってそうだろう。その人を見た時、一方では扁桃核の細胞が感作され、同時にオキ、バソが出ているのではないか?だからその人のことを忘れないのだ。報酬系はそんなことにも関与しているのだろう。