第5章 男と女と報酬系
本章では愛、それも男女の愛と報酬系との関係について考える。
(「だから、男と女はすれ違う」(NHKスペシャル取材班、ダイヤモンド社、2009年)
男女の愛の問題が報酬系と深く関連していることを示したのは、ニューヨークのヘレン・フィッシャー博士の研究である。(Helen Fisher Anatomy of Love. Ballantine Books 1994) 彼女はある実験で熱烈な恋愛状態にある男女の脳の状体をfMRIで観察した。すると、腹側被蓋野と尾状核の先端部分の興奮が見られるという。これは脳の報酬系がフルに活動をしているということだ。読者の中には恋愛をしているときのルンルン気分を思い出す方もいるかもしれない。心がウキウキしてスキップを踏みたくなるような気分。恋人といると時間があっという間に過ぎていく。その時あなたの報酬系は真っ赤に光っていたことになる。
同様の研究ではゼキ博士Semir Zekiとポスドクのバーテルス博士Andreas Bartelsの研究は興味深い。恋愛状態にある人の脳の、扁桃核と頭頂・側頭結合部が抑制されるというのだ。扁桃核は不快を体験し、頭頂・側頭結合部は物事の総合的で理性的な判断をつかさどる。これらの部分が恋人の写真を見ているときに抑制されるということは、恋人に関しては冷静な判断を失うということを意味するという。読者は、報酬系が倫理観を麻痺させるという主張を覚えていらっしゃるだろう
A. de Boer, E.M. van Buel, G.J. Ter Horst:Love is more than just a kiss: a neurobiological
perspective on love and affection. Neuroscience Volume 201, 10 January 2012, Pages 114–124
ゼキ先生(2007)によれば、恋愛に関係しているのは、前帯状回、内側島皮質medial insula、海馬、線条体、側坐核などだという。(S. Zeki
: Minireview (2007)The neurobiology of love. FEBS Letters Volume 581, Issue 14; 2575–2579)
ところでここに出てくる島皮質とは、実は不思議な部位であることがわかっている。ここが破壊されると、渇望が消えるというのだ。脳卒中なので島皮質が破壊されると、タバコを吸いたくなくなる、などのことが知られる。ということはこの部分の興奮は、対象に対するしがみつきを生んでいる可能性があるということかもしれない。
恋愛とは強迫か?
ゼキ博士は恋愛を一種の強迫神経症に似た状態であるという興味深い主張も行っている。(P2576, 2007)恋愛の際のドーパミンの上昇は、セロトニンの低下とカップリングしているという。ドーパミンもセロトニンも脳内の神経伝達にかかわる物質であるが、そのセロトニンのレベルの低下は、強迫神経症に匹敵するという。そしてそもそも恋愛は、一種の強迫であるというのだ。こだわり、観念の固着、と言ってもいい。確かに恋に堕ちると、その人のことばかりを考えるようになり、ほかのことが手につかなくなってしまう。もちろん強迫とは、それを行っている時にそれがばかばかしく意味のないこだわりであるということに気が付いている。それが恋愛の際と違うところかもしれない。しかし恋愛にも似たようなところがある。「私はもっとイケメンで優しい人がタイプなのに、なんでこんな人に惹かれてしまったんだろう?」と思いながら、その人のことが忘れられなくなってしまうということはよくある話だ。
そしてもう一つ、最近恋に落ちた人にはNFG(神経成長因子nerve growth factor)が脳内で顕著に増えているという。 人間の体の中には、色々な成長因子が一種のホルモンとして分泌されているが、特に神経細胞の枝(樹状突起)を伸ばす力を促進するのがNFGである。神経細胞の分裂を促進して数を増やす、というわけではない。)おそらくこの点は強迫神経症と一番違うところではないだろうか?恋をすると人には不思議な力が宿る。相手のためにいろいろなことをしてあげたくなる。それだけではなくて自分自身も高め、相手に見合うような存在になりたいと思う。普段はしなかったような化粧をし、あるいは身なりに気を付け、自分を素敵に見せたいと思う。まるで精神に新しいエネルギーが宿り、違う人間に生まれ変わろうとする力をそこに感じたりする。
これは私の想像であるが、これらの活力にNFGが関係しているのではないか。まるで脳が成長を遂げる段階の幼く柔軟で創造的な段階に戻ったような状態と考える事が出来るような気がするのだ。
これは私の想像であるが、これらの活力にNFGが関係しているのではないか。まるで脳が成長を遂げる段階の幼く柔軟で創造的な段階に戻ったような状態と考える事が出来るような気がするのだ。
恋愛感情と母性愛との違い
ところで読者の方々には、恋愛感情と隣人愛や母性愛とはどこが異なるのか不思議に思われる方も多いのではないか。恋愛感情は激しく、それなりの純粋さを持つ。すでに書いたように、相手のためを思い、自分を高めるために努めるために全神経を注ぐのだ。しかしそこにはとても深い制約が伴う。相手は自分のこと以外に目が向いてしまっては困るのだ。きわめて排他的な愛。相手が恋敵とでも幸せになって欲しいと思うことはありえない。あるとすればそれはすでに恋愛感情ではない、別の種類の愛情と考えなくてはならない。
恋愛感情が持つこの不思議な性質を、通常の愛とは異質のものと認識したくなるのは当然であろう。そこにはいったいどのような相違があるのか。ここにも脳科学的な最新の知見が理解の助けとなる。
ゼキ博士によると、結局脳科学的には、恋愛感情と性的感情は脳の興奮部位としては非常に近いということだ。ともに前帯状皮質が興奮しているし、視床下部もそうだ。そしてこの視床下部は、母性本能の際には静かであるという。もちろん赤ちゃんからのタッチはパートナーからのタッチとは違う。そしてその「違い」は視床下部が興奮しているかどうかということが決め手らしい。