第11章 報酬系と集団での不正の問題
ここで応用問題である。たびたびニュースで話題となる、企業や団体の不正の問題。これをどのように考えるべきか。これは嘘か自己欺瞞とはどこが違うのだろうか?
人間社会はよほど不正が好きと見える。最近もM自動車が会社ぐるみで20年以上にもわたり燃費に関するデータの不正な操作を行っていたという。この不正の問題はこれまで私たちが考えて来た自己欺瞞や「小さな嘘」とは問題の性質が違う。それは組織全体がそれを共有し、かつ維持していたという点においてである。
このような問題に対する私たちの反応は極めて画一的でパターン化しているといわざるを得ない。「このような不正は許されることではない。」「その企業に自浄作用がないことが問題だ。」
もちろんその通りである。でもどのテレビのキャスターもそれしか言わない。
もちろんその通りである。でもどのテレビのキャスターもそれしか言わない。
他方個人のレベルの反応には少し違いがあるだろう。テレビのキャスターに同一化して、「とんでもない話だ」という反応の一方では、「これ、起きちゃうんだよねえ」という反応もあろう。集団での不正の問題は、おそらく大部分の組織において、ある程度はおきるというのが私の見方である。私たちの多くが何らかの組織に属している以上、その不正を起こすメンタリティにも親和性があるのだ。組織での不正は決して人事ではない。いつでも起こりうる。それは端的に言って、不正を行うことが快楽原則に従うからである。私たちはこの報酬系からのささやきかけに抗うことは出来ない。
私たちは自分とは無関係な組織が起こした不正については、それを聞いただけで「とんでもないことだ」という反応をする。私たちの多くが何らかの組織に属し、そこですでに不正が行われていて、場合によっては自分もある程度関わっているのに、どうしてその私たちが他人の不正についてはそれを許せないと思うのだろうか?それは自分たちの不正に関しては、それが特別な事情があり、やむをえないことであり、罪悪感をさほど持たないから、である。そう、この罪悪感の麻痺があるからこそ、組織の不正はなくならないのである。
具体例を示さなくてはならない。M自動車と限定をすることなく、ある自動車会社で起きたと想像される次の様な社員同士の会話について考える。
上司:「また政府が厳しい燃費の水準である、『リットルあたりXキロ』を示してきた。わが社はどうがんばってもX-2キロが精一杯だ。」
部下:「困りましたね。A社が、その基準をクリアする車を開発したと発表しましたよ。リットル当たりX+1キロを達成したといいます。」
上司:「何?それは困った。どうにかならないのか?」
部下:「どうにか、といわれても・・・・。」
上司:「もしA社がその車を発売したら、わが社の車は、まったく競争力がなくなるぞ。売り上げゼロだ。わが社が生き残るためには、X+3キロを達成しなければならない。」
部下:「しなければならない、と言ってもこれ以上車の性能を改善をすることは、今のペースでは容易ではありません。」
上司:「とにかく燃費データをリットルあたりX+2キロ達成したことにするのだ。」
部下:「えっ、そんなことをしていいんですか・・・・。それじゃ不正データを使用したことで、罪を問われてしまいますよ。」
上司:「君はわかっていないな。そもそもA社のデータの発表、そのまま信じるのか?」
部下:「A社も不正データというわけですか?」
上司:「もちろん確証はない。でもA社の2年前の発表は、リットルあたりX-3キロだった。こんな短期間に、政府の基準を満たせるようになると思うか?」
部下:「確かに、そうですね・・・・・」
上司:「企業間の競争とはそんなものだ。みんな実際のデータを出しているかは怪しい。そんなものだ。」
部下:「でも、誰が不正に手を染めるのですか?・・・・・」
上司:「いいか、不正は起きないのだ。誰も『リットルあたりX+2キロ』というデータがどこから来たかはわからないことにするのだ。君も知らない。俺も知らない。この会話も起きていなかったのだ・・・」
部下:「本当に大丈夫なのでしょうか・・・・」
上司:「いいか、この会話はここまでだ。『リットルX+2キロ達成』という発表をしなければ、わが社は車がとたんに売れなくなる。すると会社は事実上倒産だ。たくさんの社員やその家族が路頭に迷う。その意味ではこのデータを示すかが多くの人々の生活を左右するのだ。キミにそれだけの人々を犠牲にするだけの勇気はあるのか?」
部下:」「・・・・・・・。」
上司:「まだわかっていないようだな。いいか、これは企業間の申し合わせのようなものだ。もっと言えば政府もそこに加わっていると考えていい。彼らも実は燃費が実際にそこまで高くなることなど無理だということを、どこかで知っているのだ。でも彼らにも、この燃費の達成目標を提示する、それなりの事情があるのだ・・・・・・。俺も10年前にこの業界に入ったときは信じられなかった。でも今では開き直っている。そういうものだと思っている。それに考えてみろ。『わが社はリットルあたりX+2キロを達成』、ということで、誰か人が死んだり犠牲になったりするのか?実際に誰が実害をこうむるのだ?乗る側も『やった!こんな高燃費の車を買うことが出来て、節約になった』と大喜びだろう。誰も犠牲にはならないのだ。人を殺したり、物を盗んだり、という類の犯罪とはまったく別の話だ。」
書いているうちに、私も勇気が出てきた。この上司の言うことはもっともな話だ。もちろん私は、不正の行われたM社以外のA社が不正をしているとは決して思わない。本当は政府が不正をしているとは絶対に思っていない。ただこの種の不正が起き、それが後ろめたさを起こさないとしたら、そしてそれをごく普通の善良な市民でさえ起こすとしたら、この種の考え方が必然となる、それだけだ。
ここに書いたシナリオはすべて私の想像だが、不正を働く可能性のある人々(すなわち私たちすべて)の間で行われている会話はこんなもんだと考えて間違いないだろう。その際、「他のところもみなやっている」、「これまでそうしてきた」というロジックは強烈に働く。いかに善良な人でも、入職したばかりの会社で、先輩から手取り足取り教わった仕事の内容が、どこまで不正に関与しているかは判断のしようがない。「ここの数値を、こちらに記載するように」といわれたら、その通りに書類を作成するだろう。実はそれが不正な文書として決定的な役割を果たすかもしれないが、あなたはそれを知らない。しかしある程度仕事を始めて、徐々に「あれ?」と気がつく。最初は漠然とした疑問だ。そのうち徐々に心の中で明らかになっていく。しかしそれでも確信が持てずに、恐る恐る周囲の一番聞きやすい同僚や上司に尋ねてみる。そこから先は先ほどのような会話が行われるであろう。
自分が不正に加担しているのではないかと感じ始めた時点で、さっそくその不正を正すために公的機関に通報する、という人がいるだろうか?彼はそれによりせっかく得た職を失い、一家を支えることが出来なくなるかもしれないのだ。組織における不正に加担することを一切拒否するとしたら、おそらくその人のほうがどこか変わっていて、融通が利かず、「話がわからず」、他人とうまくやっていけない、すなわち健全な社会人とはいえないという可能性すらある。なんとオソロシイことだろう?組織ぐるみでの不正が、実は私たちが正常であるからこそ起きるとしたら。
ところで組織において不正を働く人は、これまで考えた「弱い嘘」や自己欺瞞の傾向を持つのだろうか?あるいは組織において不正に加担する人の心に起きていることは「弱い嘘」や自己欺瞞と同じなのだろうか?否、いずれとも異なるだろう。第一に彼らは、その人個人としては嘘や自己欺瞞とは無縁の人である可能性がある。その彼が不正に手を染め続けるとすれば、それが「皆がやっていること、その意味で後ろめたさを本来もつ必要のないもの」という意識であろう。いわば治外法権としての世界でぎりぎり合法的な活動を行っているという意識に近いかもしれない。ただしそこでの法律はすべて不文律であり、暗黙のうちにしかその内容は伝えられないことであるが。