2016年8月23日火曜日

推敲 ●●


第●●章 自己欺瞞の何が問題なのか?

これはおまけの章である。できそこないの章。でもせっかく書いたので、幽霊の章として残しておく。ゲラにもしてもらえないだろう。
 さて自己欺瞞の何が問題なのかを、ここで改めて考えよう。自己欺瞞はまず周囲に害毒を及ぼすことが多いのが問題だ。自己欺瞞は多くの場合、自分を利するために用いられる。しかも本人にはその自覚が薄いから始末に悪い。場合によっては「人のため」にやっていると本人が思い込んでいるのだ。その場合、たとえば「お母さんは、あなたのためを思って言っているのよ。」的な言葉が用いられるだろう。そして言われた方も一瞬そのように思う。「そうか、私のためを思って言ってくれているのだ。それに反発する私がいけないのだ・・・・」しかしふと、「本当だろうか?」という気持ちが起きる。直観的にそこに自己欺瞞を感じ取るのであろう。ところがそれを捉えて攻撃することが出来ない。それが本当は利己的な行為であるという決定的な証拠などどこにもない。だからこそ自己欺瞞は生じ続け、周囲もその犠牲になる。しかしさすがにそのような人は次第に周囲から遠ざけられる。「この人といても利用されるばかりだ。アブナイアブナイ」となっていくのである。
ここからはいくつかの事例を挙げて、自己欺瞞の具体的な生じ方や周囲への影響の及ぼし方を考える。

自己欺瞞の実例 ①

あなたが友人からメールを貰う。「今少し困っていることがあるんだけれど、時間を取ってくれない?今直接会えませんか?」あなたはこう返す。「ごめんね、今日少し頭痛がして、しんどいから、無理。」本当はあの人には会いたくない。それに頭が重いのも確かだ。でも本当に具合が悪いから会えないのかと言えば、分からない。でもあなたは「具合が悪いという正当な理由で会えないのだ。別に悪いことではない。」と自分を納得させる。あなたは本当は友人に会いたくなかった。でもそれを体調のせいにした。つまり自分に嘘をついたのである。ちなみにその友人は、あなたの断りの返事のメールに、「いつもの彼女らしい返し方だな」、と思うかもしれない。いざとなった時に助けてくれない人だ、という判断を下すかもしれないのだ。
自己欺瞞が発生しやすいのはこういう時で、「自分はAである。だからBである。」という理由づけのうち、Aが主観的であいまいな場合である。忙しい、具合が悪い、時間がない、など皆そうである。魚の例で言えば、4尾が6尾になるのは目に見える変化だ。デジタル的だからだ。でもさっきチラッと見た水槽に何尾くらいの魚がいたか、となると、記憶はたちまち「45尾?、6尾?」などとたちまちアナログになってしまう。釣りに行ったのが一年前だった場合にその成果を申告する際も同じことが起きる。4尾のような気がするが、6尾である可能性もないわけではない・・・・。自分がことさら話を盛っているのかどうかということが、自分にも分らない。すると自分が話を盛っているか否か、が不明になり、「6尾釣った!」という証言はより罪悪感を伴わなくなる。


自己欺瞞の実例 ②

「母がしんどい」(田房永子)に出てきた例をここで再び紹介しよう。
ある母親が娘にピアノを習わせようと思う。近所のママ友が、娘にピアノを習わせ始めたと聞いて、「自分の娘もぜひ!」と思っているうちに、いつの間にか「娘は当然ピアノを習いたいと思っている」と思い始めたのだ。早速近くのヤ●ハRピアノ教室に電話をして、段取りをつけてしまう。そして娘に宣言する。「来週の月曜日、ピアノ教室に行くわよ!」最初娘は、例によって急に決められてしまった話に驚く。「習うのは私なのに。ママっていつも勝手に決めるんだから。この間のバレエのときもそうだったし。」でもまんざらでもない気もする。面白そうだし、友達の話を聞いて、自分もやってみたいと思っていたし。そこで取りあえずは出かけてみる。そして最初は簡単でついて行けそうなので、契約をし、3回ほど通ってみた。しかしもともとコツコツ練習するタイプではない。取り立てて音楽の才能もないから、そのうち飽きて、行き渋るようになる。すると母親は言うのである。「あんたが習いたいって言ったんじゃない!高いお金も払ったのに、なんてわがままなの!」娘は、何かがおかしいと思うのだが、反論できない。
これも自己欺瞞の例だ。そしてこの種の自己欺瞞は親子で何度となく発揮され、時には娘に深刻な病理を生み出す可能性がある。
 さて問題は「娘にピアノを習わせたい」がいつの間にか、「娘が初めからピアノを習いたがった」になるプロセスである。
ちなみにこの例は、母親が自己欺瞞的であり、娘はその犠牲者である、という風には単純に割り切れないことも付け加えておこう。娘はどこかの時点で「お母さん、私、ピアノをやりたい」と意思表示をしている可能性がある。母親は最初は自分が誘ったという自覚があっても、この時点で娘の自主的な意思表示を受けた、と考えるかもしれない。そして母親に「あなたが最終的に自分で決めたんじゃないの?」といわれた娘が次のように言うとしたらどうだろう?
「私はお母さんに、『ピアノをやりたい』と言わせられたの。お母さんを傷つけたくないと思ったから、そう言ってあげたの。お母さんはいつも私の本当の気持ちを無視して、私にやらせたいことをそれとなく知らせてくるの。私が『いや』、と言えない性格なことを知っていて、いつの間にか私にやらせたいことを、私が自分からやりたいと言うように仕向けるの。なんてずるい人なの?」
ここを読んで「ある、ある」と思う人が、10人に一人くらいはいらっしゃらないだろうか?そう、母親が自己欺瞞であると同時に、娘の方にも同様の傾向があることが少なくないのだ。そして母-成人娘間のミスコミュニケーションは大体そのような問題を、多かれ少なかれはらんでいるものなのだ。ただしそこでやはり最初の段階で強い威力を発揮するのは、もちろん母親の方なのである。
ここでの母親の自己欺瞞は、自分がピアノを娘に習わせたかったが、それを「娘が本来そうしたかった」にすり替え、そのことを見てみないという傾向だ。

自己欺瞞の実例③

ある会社の部署で、ワンマン社長の肝いりで企画を立ち上げることになった。その部署では、リーダー格のAさんが、まだ年若い部下のBさんに言う。「君がこの企画のプロジェクトのリーダーになってやってごらん。君は将来有望だし、これをいい機会にして、リーダーシップを発揮してみてはどうだい?困ったことがあったら僕が助け舟を出すから、大船に乗ったつもりでね。」Bはそう言われて悪い気はしない。Aさんのことは前から頼りがいのある上司だと思っていた。そこで早速ほかの部下を集めてプロジェクトを立ち上げる。
 しかしそれがある程度進んだところで、一つ問題が生じた。社長の指令で始まったこの企画がある程度進行した時点で、途中経過を社長に伝えたところ、思わぬダメ出しがあった。その企画の進行状況を一部社長に伝えたところ、その意に沿わないという。しかしそれは最初の社長の指令(といっても簡単なものだったが)から読み取れるものに従ったのであり、むしろ社長に彼の伝えてくる方針の矛盾点を問いただす性質のものということになった。そこでBさんはAさんに相談する。「Aさん、この件について、社長に問い合わせていただけませんか?プロジェクトはある程度進行しています。社長の真意を確かめたいのですが、私には畏れ多いのです。直接連絡をできる立場にありません。」ところがそれを聞いたAはこう言い放ったのである。
「B君。あくまでも君のプロジェクトだよ。キミ自身が社長に連絡をしたまえ。」B君ははしごを外された感じがする。「いざとなったら助け舟を出してくれる、と言ったのに。」そのうちこんなうわさが聞こえてくる。「Aさんはもともと社長が苦手で、だからBさんを鍛える、などと言いながら、直接社長と対決することを避けたらしい。いかにもAさんのやりそうなことだ…。」そのうわさをたまたま耳にしたAさんは激怒したという。「Bを育てるという私の意図を誰かが捻じ曲げて勘ぐっているらしい!!」しかしそれでもAさんは直接社長と話しをすることはしようとしなかった・・・・・・。
ここでのAさんの自己欺瞞は、自分はBさんを鍛えるということを口実に、社長との直接対決を避けていて、そのこと自体を「見てみない」ということにある。

自己欺瞞の例④

ある50代の母親が、20代後半の息子の引きこもりに悩む。といっても彼は自宅に引きこもっているのではなく、自身のアパートから出られない状態だ。2年前にようやく生活保護を受けてアパートを借りるというところまで行った。母親は大学を出て会社勤務を数か月しただけで出社拒否になった息子の将来を誰よりも気にかけている。今は友達ともすっかり遠ざかり、寂しい思いをしつつゲーム三昧の毎日を送っている。母親は「私や夫が死んだあとは、彼を世話する人はいるのだろうか?」と危惧する。
 ところがある日、息子あての葉書が舞い込む。どうやら息子の高校時代の同級生のようだ。「○○君 (息子の名前) お久しぶり。この間高校の同窓会であなたの話になりました。急に懐かしくなりましたが、あいにく住所しかわかりません。まだ同じところに住んでいるかと思い、葉書を出します。もしよろしかったらメールででもお返事をいただけますか?」母親はそこに書かれた女性の名前を何となく憶えている。まだ社交的だった高校時代の息子が、そのころ友達付き合いをしていたクラスメートの女性だ。一度写真を見せてもらったことがあるが、愛らしくて素敵な女性だと感じるとともに、強烈な不安と嫉妬を感じた。息子は特に深い関係ではないと聞いてほっとしたし、実際そうだったのだろう。だから彼女は電話番号も知らなかったのだ。でも自宅の住所だけは探り当てたらしい。母親は少し考えた末に、その葉書を破り捨てる。「それは一人ぼっちの息子にとっては子の葉書はうれしいかも知れない。でも彼に一番大事なのは、まずは仕事を見つけて独り立ちをすること。異性に興味を持っている場合じゃないわ。」息子にはもちろんこの葉書のことは伝えないつもりだ。そしてつぶやく。「こうするのも息子のためを思ってだわ。」
この場合母親の自己欺瞞は、息子にこの葉書を届けたくない真の理由が、「息子の独立を一刻も早く願う」ことであると信じ、「息子をこの若い女性に奪われたくないから」という隠された理由を押し殺している点にある。

以上自己欺瞞が生じていると考えられる事例を紹介した。これらの例に共通しているのは何か?心の一部は、自分が嘘をついていることを知っている。①では本当は友人に会いたくないのに、体調のせいにしていること。②では本当は自分が娘にピアノを習わせたかったのに、娘がそれを積極的に望んだ、と思うこと。③ではAさんがBさんを鍛えるため、といいながら本当は自分が社長と対決することを回避していること。④は母親が息子に仕事探しに専念してほしいから、という口実で、実は自分の嫉妬心から、息子と女性との付き合いの芽を摘んでしまったこと。
いずれの場合も、自分が嘘をついているという明確な自覚があるとしたら、自己欺瞞ではない。単なる嘘つき、ないしは操作的な人間ということになる。ただしこの種の嘘は、「弱い嘘」として、程度の差こそあれ万人によってつかれていることは、すでに検討した通りである。問題はその嘘を彼らがあいまいな形でしか自覚していないことである。彼らは常に口実を用意している。それを意識化することで、もうそれを考えないようにしている。
もしこの状態が、ある事実や可能性が意識の舞台のそでにあっても見ないふりをする、そんな感じだとしたら、おそらくこれは精神分析でいうところの「否認」や「抑制」という機制が働いている。そしてここには一種の罪悪感が伴ってもおかしくない。それが一瞬視界に入った時に、それが生じることになる。するとこれを代償するように、相手に接近し、ご機嫌を取ることになるだろう。①なら別の機会にこちらから誘いかける。②なら子供に対してことさら愛情を注いでいるそぶりを見せる。③ならBに対して飲みに連れて行く、「やはり君は頼れる部下だよ」などとお世辞を言う。田房永子さんの漫画(「母がしんどい」)ではまさにそうだった。④だったら母親は息子に、わざとらしく見合いの話を持ってくるかもしれない。
 どれも特徴的な気がする。自己欺瞞の人の典型は、このような代償行為を行うことだ。それは彼らがある意味では自分に嘘をついている証拠になる。(だから「自己欺瞞」ど呼ばれるのだ。)彼らの代償行為は、それがばれそうになった時に一生懸命自分を、そして相手をだます手段である。こうすることで彼らは他者との関係を維持することになるだろう。さもなければ誰も彼らに近付かなくなってしまうからだ。そう、自己欺瞞人間の周りでは、周囲はたいてい彼らに混乱させられ、辟易しているはずなのだ。
でも次の様な疑問は浮かばないだろうか?この種の自己欺瞞は、例えば運動をしよう、ダイエットをしよう、と決心した人がくじける時、三日坊主の場合とどう違うのだろう?3日間続けたジョギングを4日目にサボる時、私たちは自分にどのような言い訳をするだろうか。「自分はこのままメタボでいたら、多くのもの(健康、人からの評価、自尊心)を失ってしまう」という思考は、おそらくジョギングを始めた頃よりはインパクトを失っているのだろう。テレビで見た当座はインパクトを受けても、次々と別の番組を見ていることだし。あるいはより安楽を求める心が強くなり、「運動すべし!」という思考は容易に舞台裏に押しやられる存在になって行く。もうそのことは考えなくなるのである。それがすでに述べた、自然に心から消えるに任せる」という仕組みである。