2016年8月21日日曜日

推敲 10 ②

自己欺瞞を支える「自然に心から消えるに任せる」という機制

自己欺瞞を支えるのは何か? どうして4尾しか釣っていなかったことを忘れる事が出来るのだろうか?私の考えを示そう。
 このような形での「忘却」は、忘れよう、忘れようと意図的な努力を行うのとは違い、きわめて容易で、受け身的であることがわかる。前者の忘却は力で意識の外に押しやる運動。後者はむしろ力を抜くこと。前者はほっておけば舞台にせり出してくる思考を無理やり舞台裏に押し込む作業。後者はほっておけば舞台裏に引っ込んでいく思考をそのままにしておくこと。フロイトの用語を使えば、前者は逆備給を持つ思考であり、後者はそれを持たずに自然に前意識、または無意識に沈んで行き、そこにとどまろうとする思考。後者については、それが意識という舞台に登場することで苦痛を呼び起こすという、きわめて快楽主義的な原則が働く。そしてそれが舞台裏に退くことで罪悪感や恥辱などを伴う際にのみ、逆備給を獲得する。前者は水中に沈めた風船のように浮かび上がろうとするものであり、後者は(最初に入っていたはずの)空気が抜けてしまい、風船そのものの重さもあり、浮かび上がってくる力を失った、しぼんだ風船のようなものなのだ。
実は哲学者サルトルも、この私と似たような説明をしていた。ということでサルトルに立ち戻ろう。
 自己欺瞞を哲学的に表現すると、実はとてもムズカシイ。それは例えば次の様なものとされている。「対自が即自化された自己を進んで受け入れ、しかもなお自分を対自とみなすような態度」。(富沢克、古賀敬太 ()「二十世紀の政治思想家たち新しい秩序像を求めて」ミネルヴァ書房 2002年。)
たとえば次の様な説明が入ればわかりやすいだろう。「人間は自由であることを宣告されている。人間には自由であること以外の存在の仕方はない。しかし同時に自由は「不安」と表裏一体である。たとえば厳かな式典で突然叫び出す自由を自分は持っている。それは実に不安や恐怖を掻き立てる。いつ自分がその自由を行使して叫びだし、一斉に怪訝の目を向けられるかわからないのだ。(トゥレット症候群の人の苦しみはそれだが、その場合の叫び声はもはや症状であり、自由の行使とは別物だな。)自由は責任や不安と表裏一体なのだ。だから人はその不安を避けるために自由を放棄することがある。たとえば人前ではおとなしくして、決して規範を犯すようなことはしない存在。そう決め込んでしまう。それは安全かもしれないが、自分の自由を殺している状態でもある。それは本来の対自的な存在ではなくて、即時的な存在に成り下がることになる。そこらへんにある石ころとか、ペンのように、おとなしい聴衆の一員、というわけだ。しかしそれでいて自分は対自存在、すなわち自分に向き合い、自由を受け入れる存在と思い込むとする。それが自己欺瞞だというわけだ。
「存在と無」には、こんな例が出てくる。ぶどうの房に手を伸ばすが、あいにく届かなかった。男は言う。「フン、どうせまだ青すぎておいしくないぶどうに決まっている。」イソップのすっぱいぶどうの例のようだ。ここにある自己欺瞞はわかるだろうか。ぶどうに手を伸ばすという自由の行使は、期待はずれという苦痛を伴う可能性を前提としている。自由を行使する人間は不安や苦痛と向き合わなくてはならない。ところがぶどうが手に届かないとわかると、自分がぶどうを取らないという自由を最初から行使したかのごとく振舞う。
しかし他方では、人間は自由であると同時に、本来自己欺瞞的でもある。それは私がすでに書いたように、ほっておいたらそちらに沈み込むような性質を持っている。サルトルも「存在と無」(ちくま学芸文庫)で次の様な驚くべき(でもないか?)ことを書いている。同じことを言っている!!!
われわれは、眠りにおちいるような具合に自己欺瞞におちいるのであり、夢みるような具合に自己欺瞞的であるのである。ひとたびかかるあり方が実現されると、そこからぬけ出すことは眼をさますのが困難であると同様に、困難である。それは、自己欺瞞が夢またはうつつと同様に、世界のなかの一つの存在形態であるからである。(P.223)

自己欺瞞は勝者の証である???

このように自己欺瞞を「心から自然に消えるに任せる」という働きから説明した場合、やはりそれにも巧拙が考えられる。わかりやすく言えば、自己欺瞞的な人は、やはりこの「技」に長けているのである。それを支持するとても興味深い説を唱えている人がいることを紹介しておきたい。ウィリアム・フォン・ヒッペルと進化生物学者ロバート・トリヴァースの論文だ。彼らによれば、自己欺瞞の能力は他人にそれと見破られる可能性を排除するために進化したという。」(意識と無意識のあいだ マイケル・コーバリス著、鍛原多惠子訳 講談社ブルーバックス 1915年)。(元の論文は、Von Hippel W, Trivers R: The evolution and psychology of self-deception. Behavioral and Brain Sciences 2011, 34:1-16.)

わかりやすく言えばこんなことだ。人は嘘をつくとき、それを嘘と知っている場合にはそれが態度に出てしまう。だからそれを信じ込むことが適応的というわけだ。ある人が真実と異なることを主張したとしよう。それが虚偽であることは誰の目にも明らかである。しかしその人にとってはいつの間にか、それが真実と感じられてしまう。著者たちはここでこのブログのテーマである報酬系にとっても重要な点を指摘する。自己欺瞞は意図的に嘘をつくことによる多大な労作を軽減してくる。そこには罪悪感に関連した心的ストレスや、嘘をつき続けるために必要な認知プロセスをも含むだろう。簡単に言えば人は自己欺瞞により省エネをするのだ。その意味でかりそめの自己一致は快感に通じている。そしておそらく虚偽を真実にすり替えることは、脳科学的にはさほど難しいことではないのだろう。だからいわゆる偽りの記憶、という現象も存在する。偽りの記憶の権威であるエリザベス・ロフタスは、彼女自身が見たはずのない母親の死体の様子をまざまざと回想することが出来るという。またジャン・ピアジェは、4歳の頃目の前で暴行を受けた乳母の顔を思い出すことが出来(後に乳母の狂言だとわかった)、ヒラリー・クリントンはボスニアを訪問したときに狙撃を受けそうになったという記憶について語るが、実際にはそのような事実はなかったとのことである。(すべて上述の書「意識と無意識のあいだ」に書かれている例。)
ちなみにこの両著者は、その自己欺瞞が可能なための心の機制として、解離をあげている。これも興味深い。ただしこの解離には、意識的記憶と無意識的記憶、自動的な心的内容と意識的な心的内容、など様々なものが想定され、解離の概念の拡張が必要かもしれない。
ところで前出のトリヴァースという学者の「互恵的利他行動」という概念も興味深い。WikiPedia の該当項目を参照する。「互恵的利他行動は無条件ではない。まず協力することで余剰の利益を見込めなければならない。そのためには受益者の利益が行為者のコストよりも有意に大きくなければならない。次に立場が逆転した場合に先の受益者が返礼しなければならない。そうしなければ通常、最初の行為者は次回からその相手への利他的行動を取りやめる。互恵主義者が非互恵主義者による搾取を避けるために、互恵主義者は「いかさま師」を特定し、記憶し、罰するメカニズムがなければならない。最初は利他的に振る舞うが、相手も利他主義者でない場合には援助を取り下げるこの戦略はゲーム理論しっぺ返し戦略と酷似している。おそらく互恵的利他主義のもっとも良い例であるのは、チスイコウモリの血液のやりとりである。チスイコウモリは集団で洞穴などに住み、夜間にほ乳類などの血を吸う。しかし20%程度の個体は全く血を吸うことができずに夜明けを迎える。これは彼らにとってしばしば致命的な状況をもたらす。この場合、血を十分に吸った個体は飢えた仲間に血を分け与える。それによって受益者の利益(延長される餓死までの時間)は失われる行為者の利益(縮小される餓死までの時間)を上回る。また返礼をしない個体は仲間からの援助を失い、群れから追い出される。
より身近な例はインターネットファイル共有コミュニティである。他者からダウンロードしたファイルを共有することを拒否する人はヒル(Leecher)と呼ばれ、そのような人の情報は参加者の間で共有されて、コミュニティへの参加を拒否される。」
まさにこの文中に書かれていることだが、他人の血ばかり吸い続ける人は結局はその集団から追い出される。そういう人を英語では leech (蛭)というらしい。ということは、少しでもその集団から追い出されるのを遅くするためには、自分が蛭であることに気が付かず、後ろめたさも見せずに堂々と血を吸わなくてはならないということか。