2016年8月20日土曜日

推敲 10 ①

10章 自己欺瞞と報酬系の問題

「自己欺瞞」の心理

本章で、この「弱い嘘つき」と類似してはいるが、本質的に異なる現象を論じたい。それは「自己欺瞞」である。こちらの場合は、自分が嘘をついているという意識はさらに遠のく。自分が自分に嘘をついている、自分を偽っているという状態だからだ。
自己欺瞞は、実存哲学者ジャン=ポール・サルトルがしきりに問題にしたテーマである。自己欺瞞とは、フランス語でmauvaise fois、それを英語ではbad faith と訳している。自己欺瞞という訳は定訳になっているが、まあまあ、というところか。英語だと、自己欺瞞はSelf-deception ということだが、bad faith としているのは、それがフランス語の直訳としてはぴったりくるからだ。Mauvaise = bad, foi = faith というわけである。そしてサルトルにとっては人間にとって自己欺瞞は本質的なあり方であるという。
 サルトルの言う自己欺瞞の意味するところは、社会的なプレッシャーにより、内発的な自由や心のそこから信じている行為を捨てて、誤った価値観を持つこと、という意味とされる。もう少しわかりやすく言えば、自分を偽る、ということだ。Aという思考や感情を持っていることをどこかで自覚しているはずながら、自分自身にとってもそれを持っていないことにする。
本書は哲学書ではないから、ここからはサルトルの自己欺瞞のテーマからは離れ、ここで理解したようなこと、つまり「自分自身に嘘をつくこと」という前提で議論しよう。すぐ明らかになるのは、自己欺瞞は、虚偽(きょぎ)、嘘、とも違う。それは虚偽や嘘は自分が他人に対して嘘をついているという自覚がある。つまりAの存在を自分自身には認めているのだ。釣った魚が4尾だけであったことを知っているのだ。ところが自己欺瞞はそれがあいまいになっている。おそらく4尾だった、ということは心のどこかにあるのだろう。そして同時に、6尾だったのだ、と自分に対しても周囲に対しても言うのだ。
 ちなみにこの自己欺瞞とは、心の理論の代表格である精神分析理論には出てこない概念だが、実際には「否認」に類似するものと言えるだろう。
そしてこの自己欺瞞の問題がどうして報酬系と関係するかと言えば、それが結局は自己中心性、自己愛傾向、他人を利用して自己を利するという問題と複雑に絡んでいるからである。わかりやすく言えば、自己欺瞞は一部の私たちに心地よさをもたらす。ただしその一部の人たちとは、自己中心性や、自己愛傾向、あるいはまさにトートロジカルな言い方だが、「自己欺瞞的な人」なのである。
自己欺瞞についてさらに論じるうえで、ある興味深い精神医学的な事実を紹介しよう。脳科学に興味のある精神科医たちにとっては常識ともいえる話だ。私達の脳は右半球と左半球に分かれており、脳梁というかけ橋でつながっている。そして時々精神医学的な理由から、この両方の半球の間の架け橋を切断する必要が生じるのだ。この様に聞けば不思議な印象を持つかもしれないが、脳の組織はその多くが左右に一対ずつあり、言わば左右対称の器官なのである。もちろんそれを束ねて形で脊髄につながっていくのであるが、それぞれに血液が還流していて架け橋の部分を切り離しても大量出血することはない。そして驚くべきことに、それで気を失ったりすることはないのだ。そしてさらに驚くのは、左右に切り離された脳は、独自の心を示すことになるのだ。これを離断脳、といい、この事実が発見された当時は大変なインパクトを与えた。
さて問題は、離断脳状態にある右脳、左脳は独自の仕方で外界と情報をやり取りし、意思伝達をすることが出来る。
この分離脳の実験を試みたマイケル・ガザーニガの例として有名なのだが、彼は分離脳の患者の右脳に「立って歩きまわるように」と指示した。そして今度は左脳に「何をしているのか?」と尋ねた。すると患者は、「飲み物を取に行くところだ」、と即答したというのである。
ここで読者の中には、どうやって右脳と左脳に別々に指示を与えたり質問が出来たりするのか疑問をお持ちだろう。そのためにごく簡単に説明するならば、脳は、右半球は体の左半分を支配し、左半球はその逆、という役割分担を行っている。ただしその間をつなぐ脳梁によりたちまち情報は統合されて、「あ、これは右半球由来の情報で、あれは左半球だ」ということはない。右耳と左耳の情報は脳梁を通じて即座に混じってしまうのだ。それはステレオで音楽を聴く場合に、左右の耳から別々の音が聞こえてきて、それが混ざっているという実感をほとんど与えないのと同じだ。そしてステレオはモノラルで聞くよりずっと奥行きが感じられる。それは右耳と左耳から別々の情報が快って、統合されるプロセスで、立体感が生じるからだ。その意味で情報が初期の段階でステレオで入力し、それから統合されるという仕組みには意味があるのであろう。(同様のことは視覚における立体視についても言える。ただし視覚は、実は視野によって両側性に脳で処理されるために、少し話は厄介になるが。)
この「飲み物を取りに行く」と即答した男性に戻ろう。彼は自分の行動の根拠を聞かれ、それが明確でないことを知るや否や、すぐさま取り繕ったことになる。本当は自分がどうして立ち歩いているかわからないはずであるのに、次の瞬間にはそれを合理的に説明したわけである。
 さてこの男性ははたして嘘をついているのだろうか?この問題に答えるために、私達の脳が常に行っている可能性のある働きについて考えよう。私たちが通常の脳を備えて日常的に活動をしている際、そこで起きている可能性のあるのは、ある種の自動的な、無反省的な行動ないしはそれへの傾向であり、同時にそれを理由づける理性の働きである。それがこの分離脳の実験において見事に表れているとは言えないであろうか?もしそうである場合、その自動的、ないしは無反省的な行動とはある種の快適さを生むものが選択されるのではないか?上の例であれば、右脳への情報のインプットは、「立って歩き回るように」という指令であった。それは彼の脳にプログラムされ、体が無反省に、自動的に動き、それに対して抵抗することは出来なかった。自動的に動き出している行動を阻止することは不安や苦痛を生むものだ。その意味ではその行動は快楽原則に従ったものであろう。そしてこのことは、私たちの行動が第一に快楽の追及、ないしは不快の回避を意図され、脳の別の部分はそれをいかに、どのように正当化し、合理化するかに腐心しているか、ということを表しているのだ。
この分離脳の実験を、報酬系の見地から捉えよう。右脳は快楽原則に従った行動へと向かう傾向にある。私が別書「脳科学と心の臨床」(岩崎学術出版社、2008)で論じたように、右脳は「気まぐれなイノベーター(変革者)」である。その時その時に欲した方向に行くように自ら自身を仕向けるのだ。それとは異なり左脳は「論理的に疑い、理由付けをする」脳である。両者の方向性は逆なのだ。そしておそらく両方の傾向は常に綱引きをしている。ちょうどステレオサウンドを聞くように、脳は両方の傾向を聞き、統合しているのである。もちろん実際に人間の心がそのような動きを見せているかはわからない。しかし分離脳の実験はそのような仮説を抱かせるのである。
このように考えると、嘘や自己欺瞞はまさに左脳の真骨頂ということになる。問題は、脳全体、つまり右脳、左脳の連合体が、左脳のでっちあげを知っているか、ということなのだ。分離脳の場合は、左脳は自分がでっちあげをしているということを、ニュアンスとしては知らないようである。高速で言い訳をした後、悪びれる様子がないからだ。(実は同様の現象は、右半球の脳梗塞で見られる「反側否認」という現象に見られる。左半身が麻痺していることを、言語脳(左脳)は途方もない作話や言い訳により否認するのである。) しかし実際の脳は左右が脳梁でつながっているから、左右の情報の行き来は起きていることになる。そしてより高度な脳の機能、つまり自己反省や内省が行えるはずであろう。しかしそれでも左脳のでっち上げをどの程度意識化しているかについては怪しい話だ。
 ここで少なくともこの件について二つの可能性が考えられる。一つは脳全体が左脳のでっち上げを知っている場合であり、その人は「飲み物を取りにいく」と他人に嘘をついていることになる。そして自分の嘘を自覚しているからこそ、嘘をつき続けることが出来る。少なくとも「弱い嘘」については、脳が左右に分かれて情報を発し、その後に統合するという仕組み上、ほぼ自然に起きる現象といえるだろう。
 しかしもう一つの可能性がある。心が嘘をついているということについて知らない場合である。つまりは脳全体で自分のしていることを内省しても、結局は分離脳の段階を出ず、左脳の話のでっち上げに気が付かない場合だ。そしてそれが自己欺瞞に相当することになる。自己欺瞞、という言葉からわかるとおり、これは自分で自分を欺いている状態なのである。自己欺瞞の話の関連で分離脳の話を出したのにはわけがあった。分離脳の状態では、通常は左脳は本気で「飲み物をとりにいこうとしている」と信じていることが知られている。分離脳は自己欺瞞脳でもあるのだ。
自分で自分に嘘をつく、ということはどういう状態だろうか?「軽い嘘」のことを思い出そう。魚を釣りに赴き、実際は4尾釣ったのに、6尾だという、あれだ。「軽い」なりに嘘だから、本人は「本当は4尾」だということを知っている。だから「あなたと一緒に釣りをした人に聞いたが、あなたは4尾しか釣れなかったと証言しましたよ」などといわれると、すぐにシドロモドロニなり、嘘がバレてしまう。その危険を十分に自覚しているのだ。
 ところがここにある自己欺瞞を用いる人がいて、4尾を釣ったのに6尾釣ったということを半ば信じてしまう人が登場する。彼は不思議なことに、嘘をついたという自覚がない。彼は頭の中で4尾をさっと6尾に置き換えて、平気なのである。彼は自分自身に嘘をついてしまう。もし証言者がいて4匹しか釣れなかったのを見た、といわれると、彼はきっとこういうのである。「その人が嘘をついているのだ。」あるいは証拠写真を見せられたら、こういうのである。「その証拠写真は細工がしてあると考えるしかない。コラージュだ。」コラージュだと言い張る人は嘘をついているのだろうか?そうではない。それは嘘を信じる側の自分なのだ。自己欺瞞とは自分に嘘をつくといったが、そこには嘘をつかれた自分がいて、もう一人の自分の言うことを信じる。そして事実が間違っているしかない、という結論に至るのである。