2016年8月19日金曜日

推敲 9 ②

アリエリーの説は結局「人は皆マイクロ・サイコパス」であるということであろうが、それをもっと単純化させ、「人間はある程度の自己欺瞞は、持っていて普通(正常)である」と言い換える事が出来よう。これが含むところは大きい。人が真っ正直であろうとした場合、その人はむしろ強迫的な性格であり、病的とさえいえるかもしれないのである。

昔こんなことがあった。アルバイトで勤務していた精神科病棟の主任看護師はオードリー(仮名)という中年の黒人女性だった。彼女はいつも硬い表情を変えず、冗談が通じないとは思っていたが、あまり気にしないでいた。ところがある日私がナースステーションにあったボールペンをポケットにしまおうとするのを目ざとく見つけ、「先生、それは病院の備品ですよ。」と私に注意してきたのである。私は最初オードリーが冗談を言っているのだと思い、「そうだね、泥棒になっちゃうね。」とおどけて言ったが、オードリーはニコリともせず、大真面目である。恐らく私はその日筆記用具を忘れてきていて、ナースステーションのペン立てに無造作に入っていた安物のボールペンの一本をカルテ記載に使った後、そのまま拝借して別の病院に向かおうとしていたのだ。まだオードリーの大真面目さに気が付かなかった私は「じゃ、貸してもらうということでよろしくね。」ところがオードリーは強硬な姿勢を変えない。「ドクター、それはいけません。備品の持ち出しは禁止されています。」もちろんわたしはあきらめて、ボールペンをペン立てに戻した。
 私がこの
20年以上も前のこんなエピソードを、オードリーの名前や表情を含めて覚えているのは、このオードリーの融通の利かなさがあまりにも印象的だったからである。不思議なことであるが、私はオードリーを人生であった最も倫理的な人、として記憶しているわけではない。むしろこれまでで一番カワっていた人たちの一人として思い出されるのである。

ではどうして変わっていない、普通の人たちは、少しのことをごまかすのか?それはそうすることが快感原則に一致するからだ。魚釣りの成果を4尾と言うより6尾と言ったの方が自慢のしがいがある。財布に千円札が4枚しかないよりも、六枚のほうが良いに決まっているではないか。それと同じだ。ちょっとした快感。でも私たちはそれを積み上げながら生きている。バーゲンで100円が90円になっていただけれも飛びつくではないか。あとは嘘をついていることによる良心の呵責がどの程度それに拮抗するかだ。その拮抗点がその人にとっては(4尾という正直な値と比べて)10尾でもなく、5尾でもなく、6尾ということだ。このような嘘を「弱い嘘」と呼んでおこう。
話を「盛る」という言い方を最近よく聞く。私たちは友人同士での会話で日常的な出来事を話すとき、結構「盛って」いるものだ。それはむしろ普通の行為と言っていい。「昨日の私の発表、どうだった?」と友人から聞かれれば、「すごく良かった」というだろう。たとえ心の中では「まあまあ良かった」でも。相手の心を気遣うとそうなるのがふつうであり、このような「盛り」は普通しない方が社会性がないと言われるだろう。これは礼儀としての「盛り」でも、それ以外でもいえることだ。例えば「昨日すごくびっくりしたことがあった!」などと日常のエピソードを話すときは、たいして驚いた話ではなくても、やや誇張して話すものである。これなどは「弱い嘘」よりさらに弱い「微かな嘘」とでも呼ぶべきだろう。そしてアリエリーの「魚が6尾(本当は4尾)」はその延長にあるものと考える。
そこで話を最初の賄賂を受け取った政治家に戻す。彼の嘘もこの魚の話の延長なのだろうか?恐らく。そして「秘書が受け取ったかもしれないが報告を受けていない」というのは、「絶対に受け取っていない」と言うよりは良心の呵責が少ないはずなのだ。そして「秘書が・・」と「弱い嘘」をつくことは、「ごめんなさい、受け取りました」と頭を下げるよりはるかに快感原則に従うのだ。

抑圧という名の魔法は果たして可能なのか?

先ほどのべた議員さんの心のプロセスをもう少し探ってみよう。この議員が賄賂を受け取ったことを「忘れて」しまうということは起きるだろうか? もしそうなった場合は「嘘」や「弱い嘘」ではない。本当に「忘れて」しまい、あるいは偽りの記憶で置き換えられるのである。そうなると「賄賂は受け取っていません」と主張する議員に基本的には良心の呵責はないことになる。これは一種の心の魔法のようなものだ。
ただ人の心はそうやすやすと、この魔法を使わせてはくれない。心に置くことが苦痛だからといって、それを記憶から消去してくれるような装置は私たちの中には通常は備わっていないのである。
ここで「抑圧」の話をしなくてはならない。ある考えや衝動などをなぜ心から追いやることができるのか? 「出来る」とフロイトは考えた。フロイトは思い浮かべることが心に痛みを生じる場合、その内容は意識から押しのけられ、無意識にある、と考えたのである。わかりやすく言えば、思い出すのが嫌なことは、都合よく忘れるという現象が生じると主張したのだ。そしてその心の痛みとしてフロイトは幾つかを考えた。それらは「ウンザリ感、恥、罪悪感、不安」がある。要するにさまざまな不快である。
具体例に則して考えよう。ここはある女性が職場でフロイトにならってセクハラを受けた、という例を選びたい。(なぜならフロイトがこの抑圧の原因として主として考えたことは、性的な内容だったからだ。)その女性はセクハラの記憶を思い出すたびに「ウンザリ感、恥、罪悪感」を体験する。つまりセクハラをしてきた上司のことを考えるとウンザリし、またそんなことをされて恥だと思う。また自分にもある程度の原因があったのではないかと思うと、罪の意識も感じるのだ。この恥とか罪の感情は、性的な内容を含んだものに特有かも知れない。それに性的な出来事はどこか隠微で、隠されなくてはならないという気持ちを私たちに生む。それで心の外に追いやることができる、とフロイトは考えた。
精神分析の理論は、この「思い出さないようにする」心の働きとして、様々なものを考えた。否認 denial、否定 negation、排除 foreclosure、抑制 suppression、解離 dissociation ・・・・・ とたくさん出てくるわけだが、結局これらは「抑圧」という名前でひとくくりにされると言っていい。少なくともフロイトはそう考えた。
ただし抑圧により忘れられた記憶は、通常の忘却とは違う、とフロイトは考えた。なぜならその本体は消えてなくなったわけではなく、無意識という心の別の部分に移ったと考えたのである。無意識とは通常私たちが思い浮かべることのできるもの以外の膨大な内容を蓄えた心の部分であり、通常はそれを意識化する、つまり思い浮かべる事が出来ない。
このフロイトの図式をもう少しわかりやすく表現してみる。意識とはスポットライトを浴びた舞台のようなものだ。そこで起きていることが意識されることだ。しかし舞台のそでや舞台裏では別のことが進行している。ところがそこにはスポットライトがあっていず、暗いままなので、観客にはそこでの動きが見えない。しかし、とフロイトは考えた。舞台裏で起きていることはさまざまな形で、「象徴的に」表舞台に影響を与えるのである。
ここまで私は「思い出したくないものは、思い出さなくなる」ことを当たり前のことのように書いているが、この問題は実はすごくややこしい。「いやなことを考えない」ということが果たして可能なのかという問題は、脳科学的にも結論を出すのが難しいらしい。なぜならいやなことは「気になること」でもあり、心はそれを放っておかないからだ。人があることを考え続ける、やり続けるというのはよりシンプルである。心はそこに戻っていけばいいのだから。ところが不快な場合は、それがいったん心に入り込みそうになると、それを押しやるという努力を必要とする。その方法はどのようなものだろうか?それを否認するような言葉を発したり、違う証拠となるような理屈を考え続けたり、その不快な事柄を思い出させた人に向かって怒ったりするだろうか。それが本当に可能なのか?

いわゆるTNTパラダイム

 心は不快なことを本当に忘れる力があるのか?実はこのテーマは簡単なようでいて、とても難しいことだ。だから現代の実験心理学ではひとつの流行のテーマでもある。それはいわゆるTNT問題(think/not think paradigm、考える・考えないパラダイム) と呼ばれ、多くの研究がある。そのうちの一つを紹介しよう。
 まず被験者を集め、ある事柄に結び付けられた無関係の別の言葉を記憶してもらう。空―靴、城―虹、などという風にペアで覚える。それをたくさん覚えてもらうのだ。すると「空」と聞いたら、「靴」、と頭に浮かぶようになる。ここまでが第一段階である。そして次にその言葉を与えられたときに、そのいくつかについては、わざと想起しないように指示するのである。たとえば「城」と聞いたら、それが何に対応していたかを思い出さないように、被検者に指示するのだ。これが第二段階だ。そして第三段階としては、その訓練をした結果、被験者は、想起しないように訓練された単語のペアは、それ以外に比べてより思い出せなくなるのか、それとも変わらないのか、という研究をすることになる。
この研究の結論として得られたのは、考えまいとしたことは、より多く忘れられていったということだ。フロイトの抑制の理論はその意味ではおおむね正しかったと言えなくもない。
これについてはわが国の研究者の業績もある。(松田崇志(2008)「記憶の抑制に対する効果的な方略の検討 Think/no-Think パラダイムを用いて」人間社会環境研究 15号、20083 189197.)ところがこの研究は、忘れようとして被験者がどのように涙ぐましい努力をしているかが同時に描かれているのだ。私はそれを読んでびっくりした。彼らは最初の単語が示されたとき、それに関連した別の単語を思い出さないようにするために、別のことに意識を集中させたり、最初の単語から連想されるものを考えるなりして、つまり「ほかのことを考える」ことで無理やり考えないようにしていたのである。しかしこれは果たして自然に「忘れる」ことなのだろうか?
このTNTに関する研究で、もう一つ紹介しておく。スウェーデン・ルンド大学のゲルト・ワルトハウザー教授は、被験者に脳波測定装置をつけた状態でこの抑圧の効果を実験したという。そして一連の実験の最後に、脳波記録を確認したところ、被験者が情報を忘れた過程を見てみると、記憶の抑圧をつかさどる脳の部位である前頭葉が活発に活動し、それが記憶の検索をつかさどる海馬の活動を停滞させていた。前頭葉が活発になればなるほど、彼らは記憶の抑圧がうまくできていたのだ。
このTNT問題に関する実験が教えてくれるのは次のことだ。私たちは考えたくない、あるいは考えるべきではないことを、そうたやすく忘れるわけにはいかないということだ。少なくともフロイトが考えたように、心がその考えの内容にギュッと圧力をかけることで、つまり「抑圧」することで意識の外に追い出すような芸当はできない。だからその代わりに「一生懸命別のことを考える」という涙ぐましい努力が必要になるのだ。そうすることで海馬の検索機能を一時的に抑え込むことで、やっと思い出せない状態を作り上げていたということになる。でもそれはおそらく本当の意味で忘れたことにはならない。自分は「Aということを思い出さない努力をしている」という意識は残るだろう。先ほどのTNTの例では、「空」と聞いて、それに関連した「アレ」(正解は「虹」であった)を思い出さないようにしている、という意識は残る。それが思い出すまいとする人間の努力の限界なのだ。そしてその意味では、人間は「弱い嘘つき」のままなのである。
ちなみに弱い嘘つきである私たちに働いているのは、抑圧ではなければどのような仕組みなのであろうか?この問題については専門家の間に一定の見解があるわけではないが、実はそれほど難しく考えることでもない事実であると思う。それは、ある思考内容は、それを心においても痛みを感じないからこそ、それを無視、放置できるということだ。「実は魚を4尾しか釣っていないのに6尾釣ったと申告している」という事実は、良心にとってさほど痛くない。「自分はそこそこ正直である」という自覚に抵触しないからだ(少なくともアリエリーの説によれば)。「自分は何も1尾を6尾といっているわけではない。4尾は釣っていたのだ。」それでいい。あとは話を盛ることによる快感が勝ってしまう。
 もちろん4尾を6尾というのは明らかに嘘である。5尾くらいだったらまだ許せる、という人もいるだろう。あるいは先ほど例に出した看護師オードリー(仮名)だったら、絶対にそのような話を盛ることはしないかもしれない。(せいぜい4.01尾くらいか????)でもたいていの人はその種の弱い嘘をつくことで人生を送っていく。というよりは、いつもの言い方だが、そのような人が最も生存に適していたから現代に生き残っているということなのだろう。