2016年8月18日木曜日

推敲 9 ①

9章 嘘という名の快楽 2.―「弱い嘘」つきは人間の本性に根差す

本章から嘘と報酬系の問題について本格的に論じよう。
私は精神科の医師だが、人の心は知れば知るほど分からなくなっていく。わからないからこそ面白いというところもある。その中でも興味がわくのは、人はなぜ嘘をつくのか、という問題だ。といっても前章のOB方氏の類の類まれなる嘘ではない。私たち皆が日常的につく嘘である。
 つくもちろんその中には積極的に許される嘘もある。他人を傷つけないための嘘(英語で “white lie” という表現がある)などは、それをつくことに良心の呵責はない。
はるか昔のことだが、アメリカに住んでいたころ、ある子供に輸血が必要な非常事態が生じたことがある。同じ血液型の母親が、病院で、「ぜひ自分の血を取ってほしい」と申し出た。アメリカは体重が一定以下だと輸血用の採血をしてくれないという決まりがある。貧血でも起こされたら困るのだろう。そこで母親は輸血係のナースに体重を尋ねられた。彼女はそんなことなど知らず、正直に答えた。「118ポンド(55キロ)です」するとそのナースは、「困りますね、ちょっと足りませんね。」と言った。大切な自分の子供の手術のためにどうしても輸血をしてあげたいという母親の心を知っていたナースはこういったのだ。「輸血をするには120ポンド(56キロ)以上の体重が必要です。いいですか、もう一度聞きますよ。あなたの体重は何ポンドですか?」母親は答えた。「はい!120ポンドちょうどです!」「よろしい、では採血の準備に入ります」。母親は幸い輸血後も貧血で倒れることがなかった。手術も無事終わり、みな満足したのである。
おそらく世の中はこんな風に回っている。もちろん体重100ポンドを切る女性が120ポンドと虚偽の体重を報告するのは正しい行為ではない。もし120ポンドないとエントリーできない競技があったとして、本当は118ポンドの人が体重を上乗せして報告するとしたら、それは明らかな不正だ。でもこの母親とナースのやり取りに見られる嘘は大抵の場合許されるだろうし、それで社会はよしとしているというところがある。

いやなことは考えない、という心理

上の white lie の例は他人を守り、共通の利益を図るための嘘といえる。それは社会通念上許されることが多い。しかし自分の利益のための嘘も、私たちは平気でつく。それも通常は犯罪者とは考えられないような政治家や学者がつくのだ。人はどうして事実を直視せず、明らかに誤りと思える事柄に固執するのだろうか? この問題も考えていくうちに、報酬系の問題とのつながりが見えてくるのだ。私たちのつく嘘は、それが報酬系を刺激するということで説明できることが実は多い。それが本章のテーマである。
 先日テレビを見ていたら、ある政治家が予算委員会か何かで、賄賂を受け取ったかどうかを尋ねられていた。「私はこれまでに不正を一切していません。」それに対して野党の議員が畳み掛ける。「いや、受け取ったか受け取らないかを聞いているのです」件の議員は言う。「記憶があいまいです。秘書に確認する…。」 「きのうA誌(週刊誌)の記者には、相手との接触を肯定したそうですが?記事に書いてありますよ。」と威勢のいい野党議員は週刊誌の該当ページを開いて振りかざす。疑惑の議員はこう答える。「だから、相手と会食したことはある。それから秘書が何かを受け取ったかもしれない。しかし私は報告を受けていない ……。」
聞いていても何とも往生際が悪いが、その政治家は嘘をつこうとしているのか? これは否認か?虚言か?はたまた解離か?自己欺瞞か?それは分からない。それにこのような場合、しばしば本人は嘘をついているという実感がなかったりするから驚きだ。嘘をついているように思える人がいったいその自覚がどれほどあるのかは、実は驚くべきほどにあいまいであることが多い。
しかしひとつ確実に言えることがある。それはその政治家にとっては、賄賂を受け取ったという記憶を心に置くことはとてもつらいのだ。できるなら触れたくない。だから彼は会見を回避する。いっそどこかに逃げ出したい。自分はふと悪い夢を見ているのではないかと思うだろう。ある時は「あれはなかったんだ」という気持ちになる。賄賂は受け取っていないと思える瞬間も確かにあるのだ。しかしまたその記憶は突然戻ってきて、心に痛みを与える。このように「忘れる」ことと情動は深く関係しているようだ。少なくともうれしいこと、誇りに思うことを人は簡単に忘れようとはしないものだ。
するとまた、ごく単純な発想が湧いてくる。ある事実を否認するのは、それを考えることがつらいからであり、否認が快を生むからではないか? つまり疑惑の政治家にとっては、それが事実に即しているかどうかという判断は二の次なのである。彼の最大の関心事は、「いかにそのことに触れず、他人に触れさせないか」ということであり、各瞬間にどうやってその場を乗り切るかしか頭にないのである。
それにしても上記の政治家の嘘はどれほど異常で病的なのか?それは分からないが、私はOB方さんの嘘よりははるかに頻繁に出会う、その意味では「正常範囲の」嘘ではないかと思う。もちろん正常イコール=正義、ということでは決してないが、その意味ではかなり「異常」性は低くなってくる。それでも私は政治家がことごとくこの種の嘘をつくとは思いたくない。だから比較的頻繁に見られる嘘、くらいに理解しようか。
しかしここに「一般の人は普通に嘘つきである」という理論が登場する。

人は健康な状態で、本来「弱い嘘」つきである、というアリエリーの主張
  
社会行動学者ダン・アリエリーは、人がつく嘘や、偽りの行動に興味を持ち、様々な実験を試みた。彼の著書『ずる嘘とごまかしの行動経済学』(櫻井祐子訳、早川書房、2012年)はその結果についてまとめた興味深い本である。
 アリエリーは、従来信じられていたいわゆる『シンプルな合理的犯罪モデル』(Simple Model of Rational Crime, SMORC)を批判的に再検討する。このモデルは、人は自分の置かれた状況を客観的に判断し、それをもとに犯罪を行うかを決めるという考え方である。そこでは行動は、正しいか誤りかという判断ではなく、損か得か、という判断基準に基づいて決められる。要するにまったく露見する恐れのない犯罪なら、人はそれを自然に犯すであろうと考えるわけである。私が述べた「人は快楽原則に従う嘘はつく」という主張と一見近い。実はこの種の性悪説、「人間みなサイコパス」的な仮説はすでに存在し、それを無批判に信じる人も多かった。
 しかしアリエリーの研究グループの行った様々な実験の結果は、SMORCを肯定するものではなかったという。彼は大学生のボランティアを募集して、簡単な計算に回答してもらった。そして計算の正解数に応じた報酬を与えたのである。そのうえで第三者に厳しく正解数をチェックした場合と、自己申告をさせた場合の差を見た。すると前者が正解数が平均して「4」であるのに対し、自己申告をさせた場合は平均して「6」と報告され、二つ水増しされていることを発見した。そしてこの傾向は実験に参加した人に対する報酬を多くしても変わらず(というよりは、虚偽申告する幅はむしろ後ろめたさのせいか、多少減少し)、また道徳規範を思い起こさせるようなプロセスを組み込むと(例えば虚偽の申告をしないように、という注意をあらかじめ与える、等)、ごまかしは縮小した。その結果を踏まえてアリエリーは言う。
 「人は、自分がそこそこ正直な人間である、という自己イメージを辛うじて保てる水準いっぱいまで嘘をつき、ごまかす」。 そしてこれがむしろ普通の傾向であるという。
 つまりこういうことだ。釣りに行くとしよう。そして魚が実際には4尾釣れた場合、人に自分は6尾釣った(ということは二尾は釣った後逃がした、人にあげた、という言い訳を用意することになる)と報告するくらいのことは、ごく普通に、あるいは「平均的に」やるというのだ。そしてその程度のごまかしなら良心の呵責なく、つまり「自分はおおむね正直者だ」いう自己イメージを崩すことなく行えるというわけだ。
 もちろん「4尾」を「6尾」と偽るのは、まさしく虚偽だ。自分は正直である、という考えとは矛盾する。しかし人間は普通はその認知の共存に耐えられる、ということでもあるのだ。先ほどのSMORCが想定した人間の在り方よりは少しはましかもしれない。しかしここら辺の矛盾と共存できる人間の姿を認めるという点で、かなり現実的で、私達を少しがっかりさせるのが、このアリエリーの説なのである。