「仮置き」という名の禁じ手
ところでOB方さん事件の後、私はなぜ研究の捏造が行われるのかについて興味を持っていた。OB方さんの「スタップ細胞」をめぐる一連の事件、そして東大や京大の医学部で最近生じていると報道されている論文の不正に関する報道を目にしながら、私は今、恐ろしい可能性について考えている。科学論文って、案外不正の巣窟なのではないか?データの改ざんは、私が想像していたよりはるかに頻繁に行われているのではないか?
しかし考えてみれば、高知能で社会的な適応を十二分に遂げたはずの人たちの多くが脱税や贈収賄などの罪を犯すことは周知のとおりである。ということは犯罪行為は一般の人でも容易に行われうるということなのだろうか?私たちはそれほど反社会性を備えた存在なのだろうか?
論文の不正のテーマに戻るならば、科学論文は、その気になれば、いくらでもデータの改ざんが出来るのではないかと疑ってしまう。なぜならば、データの信憑性を最終的にチェックする方法がないからだ。たとえ公正を期するために、「科学論文には、ローデータとして実験ノートの提出が必要である」という決まりを作ったとしても、そこに鉛筆で数字を書き込むのは当事者なのである。すべての実験過程で特定の第三者が目を光らせるなど、ありえない話だ。
それにしても私は最初、犯罪者でもない人たちが、どうしてありもしないデータをでっち上げて論文を作ることができるのかがわからなかった。論文を書く人たちは高い知能だけでなく、当然世間の常識や通常の倫理観は備えているだろう。どうしてそのような人たちが窃盗や万引きまがいの罪を犯すのだろうか?
この問題を考えていくうちに、いくつか納得のいく事情を知ることができた。これもまた報酬系の問題なのである。その決め手となったのが、データの「仮置き」という行為だった。ある論文を書くとき、仮説の通りのデータが得られた場合を想定し、その仮想的なデータを組み込んだ論文を作成する、ということがあるらしい。それをデータの「仮置き」というそうだ。もちろんこれ自体は十分に根拠のあることだ。株主総会の練習だって、総会屋対策に総会屋さん役を立てて練習するではないか。(あまりいい喩ではないか?)
ある大学での論文捏造が問題になった時、「仮置き」を誤って本当のデータと見なして論文を書いてしまったと説明された。あってはならないことだが、このような仮置きデータの使われ方が巧みに研究者たちの心を犯し、上の心の「アソビ」レベルで扱われたらどうだろう?マイクロサイコパスレベルの通常人が、ついつい犯してしまうような、通常の自己欺瞞の範疇に、これが入り込んだら?
ある大学での論文捏造が問題になった時、「仮置き」を誤って本当のデータと見なして論文を書いてしまったと説明された。あってはならないことだが、このような仮置きデータの使われ方が巧みに研究者たちの心を犯し、上の心の「アソビ」レベルで扱われたらどうだろう?マイクロサイコパスレベルの通常人が、ついつい犯してしまうような、通常の自己欺瞞の範疇に、これが入り込んだら?
そのようなことが起きるからこそ、人はあれほど論文をねつ造し、データを改ざんするのではないか?最初の頃はあくまでも「仮に」置かれていたデータが、論文の提出期限が迫っても、なかなか実験データが上がってこないため、他の部分もその仮置きデータに沿って書き足されていく。あとは最後の最後にそこに正しいデータを入れ替えればいい、という段になって、例えば仮に置かれていたデータ「8.1」の代わりに「8.5」が実際のデータとして上がってくる。それだと予想と異なり、論文を書き直さなくてはならない。その時実験結果を報告してきた院生に教授が尋ねる。「もう一度聞こう。君は目がかすんで、スクリーンの数字を、実際は8.1なのを8.5と読み違いをしてはいないか?え? 僕の言っている意味がわかるかい?」 そのような状況に立った院生の何人かに一人が、「ハイ、教授。正しくは8.1でした」と答え、研究ノートにも8.1と記載する・・・・。そういう問題なのかもしれない。
あるいはインサイダー取引など、かなり怪しいのではないか?株の取引などしたことがないので純粋に想像だが、例えば知り合いの会社社長が電話をしてくる。「君にはいろいろお世話になったね。だから君には少しばかりお礼をしたくてね。わが社のある製品が、今度特許を取得して・・・・。おっと余計な話は禁物だな。私の独り言だと思ってくれ。じゃ元気でな。」
あれほど厳しく罰せられるインサイダー取引。でもこの種の会話をする人たちは正真正銘のサイコパスでなければならないのか?
図表加工が改竄を疑われるとは「思いもしなかった」
研究の世界には「データの仮置き」という独自の習わしないしは文化のあることを紹介したが、ではOB方さんの行為もその延長線上にある、ということを言いたいわけではない。やはり彼女の場合は、明らかに仮置きのレベルを超えていた。敢えて言えば、彼女の中で、個別のデータではなく、架空の研究そのものを頭の中に「仮置き」してしまったというところがある。そしてそれには彼女の独特の思考プロセス、おそらくかなり病理性をはらんだものと言えるだろう。
私は学生時代に、バンドの濃さで示される量ではなく、バンドの有無を論文の図表で示す場合には、曖昧ではなく明確に示すべきだと指導を受けたことがあり、あるか、ないか、を見やすく加工することが改竄を疑われる行為だとは思いもしなかった。
私は学生時代に、バンドの濃さで示される量ではなく、バンドの有無を論文の図表で示す場合には、曖昧ではなく明確に示すべきだと指導を受けたことがあり、あるか、ないか、を見やすく加工することが改竄を疑われる行為だとは思いもしなかった。
「(スタップ細胞が存在するという前提に立つと)後はそれをどうやって信じてもらえるか、である。ならわかりやすい手法がいいではないか。その場合には借りてきた写真でもいい・・・。なんかそら恐ろしいロジックである。これはたとえば別の例を考えてみるとわかりやすい。UFOは存在する。それは真実だ。それを皆にわかってもらうためには、夜空にぼんやりと写ったUFOの写真よりも、たとえば灰皿を空中に投げてそれを撮った写真を提示した方が、形がハッキリしていてわかりやすいではないか。UFOが存在するのが真実なのだから、そのような小細工は本質に影響はないし、当然許されるはずだ。」
これも「虚偽や悪事による影響との心的距離が増し、体感しにくくなる」例に当てはまるが、それは図表を改ざんした論文を同僚や上司に見せたときの反応がそれに相当する。「あるある、みんなやってんだから・・・」と彼女は想像したに違いない。というか「そのような指導を受けてきた」、と主張することはそれを意味している。とするとこの世界には常識なのかもしれない。それにしても「思いもしなかった」とは・・・・。
やはりOB方氏は例外である。それが通常つかれる嘘のレベルを超えていたために、あれほど多くの学者が彼女の言動に惑わされてしまったのである。しかし彼女の例は、嘘と報酬系の関連を考えさせる上大きな意味を持っていたといえるだろう。