2016年8月16日火曜日

推敲 8 ①

第8章    嘘という名の快楽

虚言症の心理

 「スタップ細胞はありまぁす」。という、うら若い女性の訴えるような声が会場に響いた。

20144月9日、一連の騒動が一段落して二ヶ月ぶりに公の場に姿を見せたOB方晴子氏。記者会見では動揺や緊張を最初は見せたものの、その後の質問になると落ち着きを取り戻す。そして「スタップ細胞はあるんですか、ないんですか?」という記者の単刀直入の質問に答えたのが、冒頭の言葉だ。そして彼女は、「すでに200回以上スタップ細胞の作成に成功している」、「写真は何百枚とある」、と「研究成果」を訴えたのである。
おそらく日本の学問の歴史の汚点として長く人の心を去らないであろうOB方問題。一番の問題は、彼女の発した言葉、取った行動が常人の想像を超えていたことにあると私は考える。私はスタップ細胞が実在するかどうかを判断する立場にない。それがありえないとは、100%断言できないのではないか・・・。と私が今でも書くとしたら、それはやはりOB方マジックの影響下にあるかもしれない。
何が言いたいのかを説明しよう。あることに確信を持ち、それにしたがって行動する人を見て、普通私たちはそれが事実だと考えるだろう。それが一見善良で真摯な研究者の言葉であり、しかも若く愛らしい女性だとしたら、その真偽を疑う理由がない。それに彼女を信じた人たちはきっとこう言っていただろう。
「いったい彼女がスタップ細胞という話をでっち上げるような理由などあるでしょうか?他の人が追試すればいずれはバレてしまうような嘘を彼女がつく理由などあるはずがありません。」
確かにそうなのである。普通なら誰もそのようなことを考えないだろう。ありえない話だ。そしてそのようなことが起きること自身がまれなことで、そのために多くの人が彼女の話を信じ、そしてそれがOB方事件へと発展したのである。
それにしてもなぜ・・・。
 私にもその理由はわからない。しかしひとつ言えるのは、スタップ細胞が存在しているという前提のもとでの言動を行う際に、彼女の報酬系が興奮し、彼女に心地よさや安心感を与えていたということだ。そう、報酬系という観点から見た彼女は、そのように考えざるを得ない。「スタップ細胞がある」と断言することは彼女に不安や後ろめたさを感じさせた可能性がある。しかし同時に、そしてそれ以上に彼女にとってそれは心地よいことだったはずである。だから彼女はその主張を今でも続けているのだ。
こういうのは当たり前といえば当たり前の話かもしれないし、何の解決にもならないかもしれない。人が何かをするのは、それが結局心地よいからだ。しかしそこまで話を戻すことで見えてくることもあるだろう。

虚言(きょげん)・・・・。いやな言葉、響きである。人を欺くことを目的とした言動。しかし簡単に人を欺くようにはとても思えないような嘘も存在する。本当に欺きたければ別のやり方がいくらでもありそうに思えるような嘘。本当にスタップ細胞が存在しないと仮定したなら(私もしつこいところがある)、OB方氏の虚言は、その類のものである。
本書でも何度も触れるたことだが、人が同じ行動を繰り返す場合、大きく分けて二つの可能性がある。ひとつはそれが何らかの快感に結びついているから(衝動的行為 impulsive behavior)。もうひとつはそれが苦痛(不安)を回避するから(強迫的行為 compulsive behavior)。私はOB方氏がスタップ細胞の実在を繰り返して主張することで何らかの不安を回避しているという印象を受けない。いや、その可能性は否定しないながらも、彼女がそれにより回避しているものが思いつかない。嘘をついているという事実だろうか?でもそれならむしろ逆効果ということになる。嘘をついていることを隠すために別の嘘をつく、ということならよく人はする。「嘘を嘘で塗り固める」、というヤツだ。彼女ならたとえば「私は○○さんに唆(そそのか)されたんです」とか「××さんに嘘のデータを渡されたんです」、とか言うという手もあるだろう。でも彼女は実際には「スタップ細胞はありまぁす」を繰り返すか、せいぜい「もう200回成功しました」など、ますます墓穴を掘るだけの事を言っている。あるいは誰かに脅され、うそをつく事を強要されているとか? まさか・・・。
やはり可能性は、OB方さんはスタップ細胞を作ったという考え、ファンタジーに浸り、快感を覚えていたと考えるしかないだろう。私はOB方さんが二月の記者会見で見せた、晴れがましい表情をよく覚えている。シャッターを浴びてちょっと上気して、満足そうな笑みを浮かべていた彼女。二か月後の49日の、まったく笑顔の消えた、沈痛な面持ちの彼女とは大きな違いである。彼女はスタップ細胞を作ったリケ女の鏡として脚光を浴び、とても嬉しかったのだろう。彼女がスタップ細胞を架空のものとして認めることはその快感を放棄することになる。単純に言えばそういうことだろう。どうしてそれが出来ただろうか?少なくとも彼女にはそれが不可能だったのだ。
もちろん私は読者の次の様な声をすぐに聞くだろう。「でも嘘がばれることの恐ろしさはなかったのでしょうか?普通の人間ならあのような場合に晴れがましい顔をして記者会見をすることなど出来ないのではないでしょうか?」
この問題には少し精神医学的な議論が必要だろう。といっても精神医学で人の心を説明しつくすことなど出来ない。おおよそこんな風に説明できるだろう、という大雑把な議論しか出来ない。そう断った上で言えば、彼女の心には一種のスプリッティングが生じていたであろうということだ。彼女はファンタジーに浸っているときは、通常の判断力や理性を保留することが出来たのであろう。これは彼女が妄想をもっていたということではない。妄想の場合には、それに伴う言動の異常さ、奇矯さに、周囲がそのうち気がつくであろう。自分の言動の真実さを信じているために、その虚偽性が露見するのを避けるための努力を行わないからだ。そしてそれに関してさらに問うていくと、さらに妄想的な内容が出てくるので、周囲はそうと気が付くのである。
 しかしOB方氏の場合には、極めて巧妙にデータを捏造していたことになる。その上でその捏造データを真実のものとするファンタジーを作り上げてそれに浸ったのである。しかし同時に現実にはそれが存在しないことをわかっていたはずである。その上で、ファンタジーと現実の二つの世界を行き来できたことになる。それがスプリッティングと私が表現している状態なのだ。
ちなみに類似の状態として解離がある。しかし解離の場合は、別の人格状態が真実を語りだす、あるいは過去の記憶を保持しないという様子が見られることになるが、OB方氏からはそれを示すものが伝わってこない。
スプリッティングという機制を用いることで、それを用いない通常の人ならとても考えられないようなことが彼女には可能になる。一方ではファンタジーに浸り、その世界で満足体験を持つ。そして今度は現実の世界に戻って嘘が露見することを防ぐべく努力する。Aの世界とBの世界。彼女はその間を比較的自由に行き来できたはずである。しかし両者はそれでもスプリットされ、十分に分かれていたからこそ、Aの世界でのファンタジーは快楽を与えたはずだ。それはそうだろう。嘘をつきながら、まもなくそれがばれるということを同時に考えていたら、嘘による偽りの喜びに浸れるわけなどないはずだからだ。心に同時にありながら、個別に体験できる。スプリッティングとはそういう心の働きなのだ。

この種のスプリッティングはたとえば依存症などではしばしば見られる。パチンコが自分にも家族にもよくないことがわかっていながら、どうして人はパチンコ屋に開店前から並ぶのだろう? あるいは覚せい剤が身を滅ぼしているとわかっていて、どうしてやめられないのだろう? パチンコも覚せい剤も、やっている最中はその快感に抗うことが非常に難しいだろう。その瞬間はもう片方の現実を忘れるのだ。そしてそれがOB方さんの嘘とどこが違うのだろうか?恐らく本質的には違わないのだ。
OB方さん事件から二年たらずして、本人の手記『あの日』(講談社、2016年1月)が出版された。その中の彼女の記述を見ると、やはりOB氏は単に嘘の上に嘘を構築している、というのとは異なる議論を展開しているようだ。おそらく彼女の話には、自分にも他人にも不正直なところが含まれているのであろう。敢えて見るところを見ずしてストーリーを作り上げてしまっている。たとえば、データ改ざんについては、次のように述べているという。
 
図表加工が改竄を疑われるとは「思いもしなかった」。・・・私は学生時代に、バンドの濃さで示される量ではなく、バンドの有無を論文の図表で示す場合には、曖昧ではなく明確に示すべきだと指導を受けたことがあり、あるか、ないか、を見やすく加工することが改竄を疑われる行為だとは思いもしなかった。

 どうだろう?「自分はこのような指導を受けた。」「あるかないかを見やすく加工することが必要だ」だから他のところから取ってきてもオーケー、 ということになる。それはおそらく彼女が心の中で行っていた理由づけでもあるのだろう。細かい虚偽の積み重ね。その延長線上にはスタップ細胞が存在する、というストーリーまで構築されていく。それぞれの過程で彼女の中では安易で心地よい選択へと流されたのである。