2016年8月15日月曜日

推敲 7 ②

フローと快楽、幸福
ところでチク先生の説には、脳の話がよく出てくる。どの程度脳科学的に妥当は私には今一つ判断が出来ないが、興味深い提言が多い。彼はフロー体験中は、使用することの出来る脳へのインプットのほとんどすべてが、ひとつの活動に向けられるという。これにより時間の感覚が変わり、不快が気付かれず、否定的な思考が入って行かない仕組みになっている。脳はひとつのことに集中することにあまりに忙しいので、他の事を処理できないというわけだ。そしてこの状態は明らかに、マインドフルネスや瞑想、ヨガにおけるある状態と類似する。特にヨガとの関連については、それは「徹底的に計画されたフロー体験の例である」(Csikszentmihalyi, 1990, p.105)という。つまりそれは心地よい、自分を忘れるような没入であり、それ自身は身体を鍛錬することで得られるという(Csikszentmihalyi, 1990, p.105)。ヨガが奇妙なポーズ(失礼!)を作り、一日何時間も一定の心の状態を達成しようとするのは、そこで自己の解放、ないしは「存在 being、意識 consciousness、悦び bliss」の統合であるという。しかし、とチク先生は強調する。それはヨガによってのみ達成されるわけではない。ここがポイントだ。
Csikszentmihalyi, Mihaly (1990). Flow: The Psychology of Optimal Experience.New York, NY: Harper and Row. 
チク先生はフローの概念は、道教との考えとも異なるという。道教には、人間が自然と一体となることを最終的な目標とするところがある。ところがフローにおいては、人は意識によるコントロールをひとつの達成目標とする。人間はその存在自体はカオスであるという。すなわちそれは様々な欲望に支配され、無秩序で、それ自身のコントロールによる快楽を味わうことが出来ない。その意味ではフローにおいては、フロイトの意識が、イド(エス)を統率する際に生じるものであるというニュアンスがあり、実際にフロイトの概念を用いての説明もその著書で行われている。
さてこの部分が一番大切かもしれない。チク先生の仕事は幸福 happiness と快楽 pleasure との違いについて考えさせられる。快楽はどちらかといえば受身的な体験であり、テレビを見たりマッサージを受けたり、薬物をやったり、という体験だ。(チク先生の本には、テレビを見ることへの戒めがよく出てくるが、さしずめ今ならスマートフォンだろう。)それに比べてフロー体験による快楽は、ある種の焦点化された活動によってのみ達成される。つまり能動的なのだ。そして幸福とは単なる快楽ではなく、そこにある種の、時には痛みを伴った挑戦がなくてはならないとする。マーチン・セリグマンはチク先生のフローの概念との関連で、幸福と快楽の区別を行っている(Seligman, 2002, p. 119)。彼によれば、幸福とは快楽とフローのバランスにより成立しているという。快楽は受身的で刹那的だ。それは自らへのチャレンジを伴わない。たとえばケーキをひとつ出されたら喜んで食べても、五つ食べさせられるとしたら多すぎて苦痛だろう。この様に苦痛は食べる側が受身的であり、その快楽をコントロールできない場合に生じる。それに比べてフロー体験とは物事に没入し、快や苦痛という体験そのものは忘れられる。快楽とフローとのバランスを取って生きることは、その快楽とチャレンジを統率する自我のコントロールの能力を前提とし、それ自体が能動的な行動であり、それを人生に生かすことに幸福があるというわけである。
Seligman, Martin E.P. (2002). Authentic Happiness: Using the New Positive Psychology to Realize Your Potential for Lasting Fulfillment. New York, NY: Free Press.
フローの体験のとき脳で起きていること
では結局脳の中では何が起きているのだろうか?これに関してはいくつかの研究があるようだ。研究のデザインとしては、被検者に人工的にフロー体験を創り出し、そのときの様子をMRIで探るという手法を用いる。フローの状態をそんなに簡単に作ることが出来るのか、という疑問がわくが、チク先生の「フロー体験はスキルとチャレンジのバランスだ」という定義の仕方を思い出そう。あれを使うのだ。具体的には被検者に何らかのタスクをしてもらい、それが簡単すぎる場合と難しい過ぎる場合、そしてその難易度を自分で調整できて好きなレベルでやれる場合という3つの状況を作り出し、三番目がよりフローに近いものと見なすという手法がとられている。
 ウルリーチャ 先生の論文をもとに解説しよう。彼らは27名の被検者に簡単で退屈に感じるようなもの、かなり難しいもの、 そしてフローを生むようなちょうどいい難しさのもの、三種類の計算タスクを与えた。その結果、フローの際は、左下前頭回 (IFG) と左被殻の活動が増した。そして同時に内側前頭前皮質(MPFC)と扁桃核の活動が低下した。ここで被殻の活動の増加は、結果予測の上昇のコーディング、左前頭回の活動の増加は、認知的なコントロールを行っているという感覚、内側前頭前皮質 (MPFC) の活動低下は、自己言及的な情報処理の低下、扁桃核の活動が低下は、ネガティブな体験の低下を表すという。確かに恐怖体験などと関連した扁桃核の活動低下は、フロー体験が恐怖や不安とは縁遠い体験であることを示している。Ulricha, M., http://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S1053811913008732 - cr0005mailto:martin.ulrich@uni-ulm.deKellerb, J., Hoenigc, K. et al. (2014) Neural correlates of experimentally induced flow experiences. NeuroImage, 86: 194–202.
 日本にも研究がある。(Yoshida K, Sawamura D, Inagaki Y, Ogawa K, Ikoma K, Sakai S.2014Brain activity during the flow experience: a funtional near-infrared spectroscopy study. Neurosci Lett. 2014 Jun 24;573:30-4.それによると、フローはかなりの部分が前頭前野の働きを反映したものだという。それらはたとえば注意とか、情動とか、報酬の処理 reward processingだとかの働きである。しかしフロー体験の際の前頭前野を研究したものがないため、光トポグラフィを使って、フロー時の脳の働きを調べたという。28人の大学生に、ゲームをしてもらい、フロー体験と退屈な体験をしてもらった。昨日の、「フロー体験=簡単すぎず、大変過ぎないタスクの遂行時の体験」という議論に従うわけだ。するとその結果フローの際は、左右の腹側外側前頭前野と背側前頭前野の活動が増したと言う。

結論:フロー体験と報酬系

最後に本章の内容をまとめておこう。チク先生が打ち立てたフロー体験という概念。彼はこれを人間存在にとって特別な体験、ある種の至高の体験として取り上げ、そこで起きていることの心理的な側面を描いた。チク先生の頭には、それが一つの純化された体験という考えがあったと思う。確かにそれはある一定の性質を持った特別な体験という風に考えることもできる。
 報酬系から見た場合には、フロー体験は確かにそれと深い関係がある。基本的にフロー体験は心地よい体験といえるだろう。しかしそれは強烈な快楽ではなく、したがってそれに嗜癖が生まれるほどではない。快感のレベルだけで考えるのであれば、コカインで言ったら、コカの葉を噛んで少しいい気持になっている程度かも知れない。
 フロー体験が報酬系の軽度の満足、という体験だけで終わらないとしたら、その特殊性や、独特の高揚感と充足感により特徴付けられるかもしれない。非日常性という点からは、新奇性が際立っていると考えられる。ピアノを弾いている人がフローに入ると、意識が自分の体から離れ、自分を見下ろすということが起きうる。いわゆる体外離脱体験である。その不思議さに魅了されて再びあの状態に戻ってみたいと思う人も多いだろう。しかしそれは簡単には訪れない。それはしばしばある種のスキルの維持や訓練といったものと結びついているし、それは独自の努力や苦痛をも伴うのだ。そう、フローはチク先生のいうとおり、ある意味では快感と苦痛のバランス上にあるのである。
快感と苦痛のバランスということであれば、読者は嗜癖に伴う同様の状態を思い出すかもしれない。パチンコ中毒の人は、玉を弾いていても苦痛だという。例の not liking, but wanting (好きではないが欲してしまう)の状態だからだ。しかしそれでもどこかに心地よさは残っているのが普通だ。だから嗜癖もある種の快と苦痛のバランスの上に成り立っているといえる。しかしフロー体験とは、その体験の質としては雲泥の差だ。前者は人間が到達する、ある高いレベルでの体験。後者は退廃そのものだ。前者はある種の自己実現であり、その追及にはあくなき鍛錬や自分との挑戦が必要だが、後者はそれに支配され、自己実現とは逆の体験であり、努力や鍛錬の放棄である。前者は求められ、後者は流される。前者は生きがいを覚えさせ、後者はおそらく精神的な死に最も近く、緩徐で受身的な自殺行為と一緒だ。
両者の違いの決め手の一つは自律性であり、自己コントロールである。フローにおいては、大脳生理学的な検査が示す通り、前頭葉の活発な関与がある。フローは流される体験ではなく、能動的に泳いでいく体験である。たとえそこに自動感が伴うとしても、それは同時に自らの行動を完全に支配する行為でもあるからだ。フローとしてタスクとスキルが均衡している状態であるという定義を思い出そう。嗜癖においてはそれとは逆に、自己は嗜癖薬物や嗜癖行為の持つ特性に完全に支配され、ある意味では身動きが取れなくなっている。自分の報酬系に完全に支配され、なすすべもなく押し流される嗜癖の体験。この両者はある意味では対極的にあると考えてもいいかもしれないのだ。