2016年8月14日日曜日

推敲 7 ①

7章 フロー体験の快楽

しばらく前に、一世を風靡した学者がいる。ハンガリー人でMihaly Csikszentmihalyi という学者だが、スペルが複雑でとても我々には読めない。日本語で、「ミハイ・チクセントミハイ」と書かれて初めて、人の名前らしく感じる。実際の姿は恰幅のいい普通のおじさんである。
チクセントミハイ先生(長いのでここからは「チク先生」にさせていただこう)はいわゆるフロー体験について画期的な仕事をした。彼は芸術家やスポーツ選手がその活動のピークとも言える瞬間に体験する不思議な現象をフロー体験と名付けた。彼自身の言葉を聞いてみよう。
「あなたが何かに興味を持ったら、あなたはそれに焦点を当て、また何かに焦点を当てたら、それに興味を持つことになるだろう。私たちが面白いと思うものの多くは、それ自身が面白いというわけではなく、頑張ってそれに興味を持つからだ。」If you are interested in something, you will focus on it, and if you focus attention on anything, it is likely that you will become interested in it. Many of the things we find interesting are not so by nature, but because we took the trouble of paying attention to them.”
― Mihaly CsikszentmihalyiFinding Flow: The Psychology Of Engagement With Everyday Life
 そしてそれに浸り切り、没入した状態が、フロー体験というわけである。フロー体験の特徴は、ある種の没入体験が報酬系の興奮を伴い、それが宗教的な洞察に結びついたり、創造的な活動となると同時に、そこに至福や興奮といった情動が伴うことであろう。
 精神医学的には、この没我の状態はいわゆる解離体験に近い。自分が現在行っていることがそれまでの通常の体験とは切り離された、特殊な感覚を伴う、いわば異なる自我状態となっているのだ。そしてこの種の解離体験と苦痛とはおそらく縁遠いことになる。幽体離脱や没入体験が苦痛や痛みを伴うという話を私たちは聞かない。通常はそれらの体験は苦痛の状態で生じ、当人は身体感覚や不快な情動から解放される形をとる。すなわち報酬系と解離状態とは連動して生じる傾向にあると考えるべきであろう。両者をつかさどる神経ネットワークは連結しているわけだ。
このように理解すると、フロー体験とはむしろ「ピーク体験」と呼んだ方がニュアンスがより伝わる気がする。人の脳と心が最も効率的に活動し、もっとも幸福を感じ、最も創造的で、最も高次の活動。そのようなものが存在して、私たちはそれを達成できるようになることを目指すことが出来るという考えだ。チク先生のフロー体験の説明も、スキル(技巧)とチャレンジという二軸のうち、両方が同時に高いレベルで達成できている状態として図示される。図(省略) で示したとおり、両軸の最大の部分として示されている。人間が与えられた最大級の課題に対して、最大級のスキルでそれを遂行しているというニュアンスだ。しかもそれを行っている時の注意はピンポイントで課題に向かい、いわば課題そのものと一体化し、しかも意識はそれを外から見ているという状態。フロー体験とはそう説明されている。
一つの例を考えよう。バイオリニストが演奏をする。たとえばチゴイネルワイゼンのものすごく速い部分を弾いている時は、このスキルが最大、チャレンジも最大ということになる。ゆっくりとした部分はチャレンジが小さく、スキルは大きい、つまり、この図で言えば、下のリラクセーション、relaxation 弛緩した状態ということになる。バイオリニストがあまりスキルがないと、boredom 退屈、ということか。
 ただしチク先生のこの図はあまり正確ではない可能性もある。フロー体験は、例えばバイオリニストが、協奏曲のカデンツァの部分をものすごい勢いで弾いている時に体験され、たとえばG線上のアリアのように、プロなら間違えようのない曲を弾いている時は、体験されない、ということになるのだろうか? ゆったりしていても、素晴らしい曲はいくらでもある。それを弾いている時にピーク体験があってもいいのではないか。
この図に当てはまらないもう一つ別の例をあげよう。たとえば高僧が禅を組んでいる途中にそれに没入し、一種のフロー体験を持つ時はどうであろうか? このスキルとチャレンジの相関図には当てはまらないのではないか?
皆さんはお分かりだろう。決め手はやはり報酬系において体験される快感なのだ。そして同時に伴う解離現象。それがフロー体験の中核部分を形成している。G線上のアリアは名曲だが動きは非常にゆったりしている。でもそれを情感を込めて弾いている時に報酬系の興奮が伴い、その行為自体が自動的になった状態がフロー体験になりうる。おそらくこの図に技巧を書きいれたのは、フロー体験を一種の究極の体験として描きたいチク先生の意図が働いているのではないか?個人的には最大の技巧と最大のチャレンジの均衡にあるのは、一種の緊張を伴った状態だろうと思う。間違えないように必死な部分があるはずだからだ。技巧がチャレンジを十分上回った状態でしか、快は生まれないと思う。やはりフロー体験の正体は「報酬系の興奮+解離」なのだ。
TEDトーク(Living in flow - the secret of happiness with Mihaly Csikszentmihalyi at Happiness & Its Causes 2014)でチク先生が説明するのが、作曲家の体験である。彼はそれが一種のエクスタシーに近付くと、作曲家自身は何も考えなくなる、という。曲が勝手に降ってくる、あるいは降りてくる、という。
あるいはチク先生はこんな例も出す。あるフィギュアスケート選手の例。「それが起きたのは、それらのプログラムの一つでした。すべてが上手く行き、とてもいい気持でした。 それは一種の興奮rush であり、いつまでも続けていける、あまりに上手く行きすぎて止めたくないという感じ。まるで考える必要がなく、すべてが自動的で、思考せずに行われ、まるで自動操舵のようで、何も考えていない。音楽を聴いていても、聴いているということが意識されず、なぜならその音楽の一部になっているからだ・・・・。(How To Enter The Flow State というサイトから。岡野訳。)
この例も先ほどの「報酬系の興奮+解離」を証明している。このスケーターの例は、一種のエクスタシーと言ってもいいだろう。ちなみにエクスタシーの語源はギリシア語έκστασιςekstasis、エクスタシス、外に立つこと)で、がみずからの肉体の外に出て宙をさまよう、といった意味が込められている。(デジタル大辞林)これ自体が解離の意味を持っているのだ。
チク先生のフロー体験の論述は、結局人間の幸福とは何かという点に向けられている。「人間の最善の瞬間は、受身的で受容的なリラックスする時間というわけではない」と彼は言う。「最善の瞬間とは、困難で価値あることを達成しようという努力の中で、その人の心と体が限界まで拡張されることである。」 これがフロー体験のことを言っているのは、上の図からも明らかであろう。その際に人は最高の満足体験を得ることになる。チク先生はそれが特に創造性を発揮する瞬間であることを強調する。
チクセントミハイ先生とは?
チク先生の生い立ちについても触れよう。彼はハンガリーに1934年に生まれ、第二次世界大戦の影響にさらされている。幼少時に彼はイタリアの監獄に入れられたが、そこでフローという考えにつながる体験を持ったという。それはチェスを行うときの没頭体験であり、まるで違う世界で、違う時間の流れを味わうという体験だった。スイスに旅行中に、チク先生はかのC. J. ユングの講演を聞き、心理学の面白さに目覚めたという。そしてそれをさらに深めるために米国に渡った。そして彼自身が画家であることもあり、芸術や創造的な活動を研究するようになった。そこでフロー体験に出会ったという。
チク先生の業績で有名なのが、サンプリング研究、ないしはポケベル研究と呼ばれるものであり、それは幸福を計測可能なものとして捉えたことで有名であるという。十代の少年少女にポケベルを与え、それを不定期に鳴らす。そして鳴った時の体験を書いてもらう。すると大体において彼らは不幸を感じていたが、エネルギーを何かに注いでいるときは、そうではないということを発見したという。そしてそれがいわゆるポジティブ心理学に発展していったという。
彼のもっとも有名な著書(M. チクセントミハイ:フロー体験 喜びの現象学 世界思想社、1996.)における主張は、幸せは決して固定されたものではないということだ。それは私たちがフローを達成するプロセスで発達するものであるという。
さらにそのような道を歩む人を彼は、オートテリックautotelic personality(自己目的的)な人の特徴が挙げられている。それによると、明確で直截的なフィードバックが得られるようなゴールを目指すこと。特定の活動に没頭すること、今起きていることに注意を払うこと、直接的な体験を楽しめるようになること、目の前の課題に対する自分のスキルに応じた課題を追及すること、であるそうだ。