2016年8月13日土曜日

(新規) 3½ ③

神経ネットワークと快感、審美性

「脳の神経ネットワークは、その興奮それ自身が快感を生む傾向にある。」
シンプルな提言だが、この意味は深い。曲そのものは時間と共に徐々にその興奮箇所が進行するような神経ネットワークを脳内基盤としていることになる。それがある種の形式を持ち、そこにある種の審美性を感じさせるときにそれは、その興奮は緩やかな、あるいは場合によっては強烈な快感を呼び起こす。
ただしこの神経ネットワークの興奮が快感を帯びおこすための条件がある。それはそれが適度の新奇性 novelty と、適度の親密性 familiarity の両方を備えていることである。たとえば昨日のブログの「G線上のアリア」は、初めて聞いた時は新奇性そのものであろう。しかし長くのばされたE音(ミ)の背後のコード進行についてはもちろんどこかで聞いたことがある。あるいは何度かこの曲を聴いた後では、そのこと自体が親密性を生む。そして何度も何度も聞いていくうちに、新奇性が失われて行き(つまり飽きてしまい)、快感は低減する。
ただし「使い古した」「G線上のアリア」の神経ネットワークが、新たな新奇性を付加されたなら、例えばバイオリン以外の楽器で演奏されたり、ジャズ風にアレンジされたりしたなら、また新奇性と親密性が適度に交わり、報酬系を興奮させることになる。
ある種の神経ネットワークが快感とともに体験され、また別のものは不快として体験されることには、ある程度の一般性がある。つまりある人にとって心地よい曲は、別の人にも心地よい可能性がある。だから「流行」も生まれるのだ。ある種の神経ネットワークは、より審美性を有し、報酬系を余計刺激する。それはいかなるものであろうか。
この問題は美学や認知心理学にもつながる問題だが、それが黄金比率を含んでいたり、左右対称性を含んでいたり、それでいてそれまでに見慣れた形にほんの少し目新しさ、新奇性を加えることで新たに報酬系を刺激するというのが一般だ。上に述べた新奇性と親密性との適度の配合が重要なのだ。

ネットワークの興奮の心地よさは生命体の生存に直結する

そもそもなぜネットワークの興奮が一般的に快感なのか。それは生命体(動物)がパンクセップの言うような「探索システム」であるからに他ならず、本来は動き回る存在だからだ。探索システムにおいては要するに報酬系がそれが刺激を受けるような対象や状況を常に求め続けるようなシステムである。じっとしていては欲求を満たしてはもらえないから、探索し、刺激を求める必要がある。そのために動き回り、知覚し、感じ取ることそのものを快感として体験しない限り、生存する事が出来ない。私自身の思考実験(第4章)から、報酬系が刺激されることは生存にもつながっているからだ。
知覚刺激、運動刺激はそれら自身が生命体にとっての deep learning のプロセスである。生命体は周囲で起きている出来事を知覚し、理解し、自らの体をどう動かすことで快を得られるのか、どうすれば不快を回避できるのかについての経験を蓄積させていく。
 その見事な実例を乳幼児に見る事が出来る。正常な発達を遂げる乳幼児は、外界のあらゆる出来事に敏感に反応し、人の心に反応し、自然現象に反応し、音に、言語に反応し、それに対応する神経細胞間の結合を形成し、ないしは剪定 pruning して行く。それらの活動それ自身がある程度の快適さを提供しない限り、生命体はそれこそじっと体を動かさず、目を閉じて外界からみずからを遮断しようとするだろう。特に外界のあらゆる情報を取り入れることが最大限に必要な乳児の場合、体を動かし、声を上げることそのものが快楽に直結している必要があるのだ。