2016年8月12日金曜日

(新規) 3½ ②


ネットワークの形成とその励起には、通常労作が必要となる

この「内角の和の定理」神経ネットワークのことを考えればわかるとおり、神経ネットワークの形成は、通常は骨の折れる体験である。通常は、といったのは、場合によっては、それはごく自然に生じ、そこには労苦の感覚を伴わないばかりか、それ自身が喜びにつながる可能性すらあるからだ。たとえばG線上のアリアなら、私は夢中になって聞いているうちにメロディーが脳に焼き付いた。しかしまったくこの曲に興味のない人、ないしは音楽的才能に乏しい人にとっては「この曲のメロディを覚えなさい」といわれても、面倒くさいとか、苦痛だと感じるだろう。
「内角の和の定理」についても同じである。数学の才能のある人にとっては、言われて直感的にその全貌を把握できるかもしれない。その一種の美しさや整合性に胸を打たれているうちに、いつの間にか精緻なネットワークが形成される可能性がある。そのネットワークを頭で転がすことには快感が伴うだろう。ところが算数が特に苦手な子供にとっては、おそらく長時間かかり、それも非常にプリミティブな形でしかそれを理解しそのネットワークを形成できない。
このネットワークの形成の容易さと労作については、言語の獲得に勝る例はないだろう。恐らくものごころつくまでにその素地が出来上がる母国語は、子供にとっていかなる労作も伴わないだろう。むしろ子供は嬉々として、あるいは自動的に新しい言葉を覚えていくのだ。ところが中学校になり、英語という外国語に語学として接した子供の中には、ほぼ絶望的な体験を有する人がいる。あらゆる単語を覚えることに苦痛を感じ、実際に少しも身につかないということがあるのだ。しかし言語はいったんそれが身につくと、それを介した会話や読書、映画鑑賞などはどれも快楽の源泉になるのである。
ネットワークを形成することが一種の労働であるならば、それを再び興奮させることにも労作性が伴うことがある。再び浦沢直樹の Monster を取り上げよう。久しぶりに16巻くらいあたりから読み返そうとすると、登場人物のつながりを忘れかけている。「ここまでどう展開したんだっけ?」と以前の巻を読み返したりして、ようやく面白くなる、ということがある。一度興奮を止めた神経ネットワークは、それを再び想起し、興奮させない限りは少しずつ風化が起きる。それを修復する際は、ネットワークを最初に形成した時に類似した労作が伴うことがあるのだ。