2016年8月11日木曜日

(新規) 3½  ①

3½章 神経ネットワークの興奮と快楽

考えを進めていくうちに、この章が必要になった。それもこの位置にである。だから3.5章なのだ。Cエレガンスには302個のニューロンがあり、それぞれの配置やネットワークの在り方が決まっている。これではその興奮のパターンがあまりにも決まりきっていてバラエティに乏しい。しかし人間の脳には1000億個がある。その8割は小脳コンピューターのチップになっているわけだが、2割(それでも200億個!)が大脳半球のネットワークに何らかの形で携わっているのだろう。
さてどうやってはじめよう? こんな話からにしようか。

中学生のころ(はるか昔だ)、私はバッハの「G線上のアリア」をはじめて聴いていた。出だしはなんとE音(ミ)が単音で4小節も続くという異色の始まり方で、そのあと荘厳なメロディーが展開していく。レコード(そのころはCDなどなかった)で何度か聞いているうちに、そのメロディーは頭の中を何度も勝手に回り始めた。歩いていても、授業を聞いていても、まさに「壊れたレコード」状態である。もちろん実際にレコードを聴いて楽しむ事が出来る。しかし頭の中で回っているメロディーを堪能することもできた。というよりはそれが快感だからこそ、何度も頭の中を回るメロディーに特に煩わされることもなかったのであろう。それに教室での授業や読書の最中にそれに特に悩まされることはなかった。他に集中する場合には、それは勝手に止まるのである。その意味では私はかなり意図的に頭の中のG線上のアリアを転がす、いわばそのレコードを回していたところがある。
G線上のアリアを頭で転がす、とはどういうことだろうか。G線上のアリアは、少なくとも記憶の形で大脳皮質のどこかに定着しているだろう。それは非常に単純化すれば、神経ネットワークである。つまりいくつかの(おそらくは膨大な数の)神経細胞の間に成立している結びつき、より正確に言えばそれらの間の抵抗が低いことで、それらのあいだを電気的な信号が流れやすくなっている状態、ということになる。そしてそれは時間的な神経ネットワークである。つまりそのネットワークの中で興奮する神経細胞が、時間の経過とともに移り変わって行くということだ。ちょうど山火事のように火がじりじりと燃え移っている感じだ。
私の頭の中のG線上のアリアの実体部分が神経ネットワークだとしたら、どうしてその興奮が快楽的なのだろうか? それは分からない。G線上のアリアのメロディーは知っているが、ちっとも心地よくない、という人もいるだろう。だからその神経ネットワークの興奮それ自身が快楽的である保証はない。それがその人の報酬系を刺激し、快楽を感じさせる、と考えるしかない。だからそれが耐え難いほどの苦痛を呼び起こす、という人がいてもおかしくない。何らかのトラウマに関係している場合には、そういうこともあるだろう。
さて現在の私にとってのG線上のアリアはどうか? 初めて聞いてから半世紀足らずも経っている。私はもちろん頭の中で再びG線上のアリアを流してみることが出来る。おそらく当時とほぼ同じような音が頭の中に流れる。しかし美しい調べだな、という感覚はあっても、当時感じたような感動は特に覚えない。
私はここで特にG線上のアリアという曲のすばらしさを訴えようとしているわけではない。美しい調べならこの世には他にいくらでも存在するだろう。サンサーンスの「白鳥」のほうが百倍も美しく感じる、という人もいるかもしれない。私が言いたいのは次のことである。
時間ごとに展開するネットワークという例では、例えば漫画や小説なども好例である。主人公の関係する興味深い逸話の描写から始まるストーリーは徐々に展開して様々な登場人物が現れる。それに関与するネットワークが脳内に形成され、それが徐々に展開、変化して行く。それ全体が快楽的な体験となる。

ネットワークが存在するとは「わかっていること」

ここで「神経ネットワーク」という言葉を私が用いている意味についてもう少し考えてみよう。曲よりは少し単純化させて、小説や漫画のあらずじについて検討してみる。すでに書いたはずだが、最近私は今浦沢直樹の Monster という長い漫画を読んだ。いま目を閉じてそのストーリーのだいたいの流れを思い浮かべる事が出来る。それが一つのネットワークからなるということは、その漫画に関する何らかの質問を受けた場合に、即答できるような、ある情報の全体を備えているということだ。それがそのストーリーを「わかっている」ということである。そのネットワークにはいかようにも、基本的には自在に「電流を流して興奮させる」事が出来るから、そのストーリーの初めの部分も終わりの部分も、自在に思い出す事が出来る。しかしおそらくその興奮には順番があるため、そこで少し流してみることで、個々の小さなエピソードのつながり具合を確認する必要がある。それは例えばG線上のアリアの曲の細部のメロディーの展開を思い出すことと同じなのである。それが、そのネットワークの司る事柄を「知っている」ということなのだ。
もうひとつ簡単な例を示す。「三角形の三つの内角の和は180度である。」小学校で習う、「三角形の内角の和の定理」である。このことを理解する、とは脳内にそれ専用のネットワークが形成されることである。すると例えば「ということは一つの角が60度の場合は、残りの二つの内角は合わせて120度ということか?」(答え:「そういうことになります。180マイナス60120ですからね」。)とか、「ということは一つの角が59度の場合は、残りの二つの内角は121度ということか?」(答え:「え? そんなこと当たり前でしょ?冗談でも言っているんですか?」)とか「球面に書いた三角形にも当てはまるのか?」(答え:「え?ちょっと待ってくださいよ。多分当てはまりません。この定理は平面上での話です。でも自信はありません・・・。」などなど。「わかる」とはそのネットワークに問いかけた場合に自然と回答が(常に正当とはいかないまでも)出てくるような性質を有する。
ただしたとえば三番目の質問に関して、「非ユークリッド空間では当てはまりません」と即答できるようなわかり方は、第一の質問にも「180マイナス60は・・・・」と計算をし出すようなレベルのわかり方に比べてかなりしっかりとした神経ネットワークが必要となる。「わかる」を支えるネットワークにもその精緻度にレベルの差があるのである。
ネットワークと快感ということから少し話がそれそうになっているが、要するに私たちはこの種の神経ネットワークが形成されることに、基本的には心地よさを感じるのである。そのようなことを言っても「算数は苦手、苦痛!」ということを言う子供たちは沢山いる。しかし彼らは分からないから、つまりこの神経ネットワークを形成できないからこそ不快なのである。このネットワークが出来ない限り、例えば「三角形の一つの内角が60度の時、ほかの二つの内角の和は120度です。では一つの内角が61度の時、ほかの内角の和は121度でしょうか?」という問いに「アタリマエダー!」という反応をする事が出来ない。逆にその反応が出来るということは「わかる」心地よさを同時に体験することでもあるのだ。