遂行システムにおける「慣性の法則」
推敲システムにおいては、一つの始まった行為は(ほかのどのような行為にも優先して)完結するという原則が存在することは間違いなさそうである。ある本を読みだす、ある行為を始める、するとそれが止まらない、という現象がある。なぜだろうか。なぜ推敲システムは、それを首尾よく終わらせることに貢献してくれるのだろうか?答えはネットワークの励起にある。そもそもネットワークは、それ全体が励起するためにエネルギーを要する。いったん温まったネットワークは、その興奮はそれ自身が快楽となる可能性がある。しかしそのためにはネットワークが立ち上がるまでが大変なのだ。しかしいったん興奮すると、そこに慣性が働くようにして、一気に最後まで行き着く可能性がある。
私は最近浦沢直樹の漫画「Monster」を読む機会があるが、読んでいると続きも読みたくなる。(全部で18巻ある。今9巻目の初めの部分を読んでいる)。これは例えばしばらくぶりに読み直そうとして、9巻目の35ページから読み直そうとすることとは異なる。なぜだろうか?それは読むことで物語全体の登場人物やストーリーの流れのネットワークが興奮して、その全体が新たなストーリーの展開を次々と欲するからである。「慣性」が生まれているのだ。しかししばらくぶりに読み直し、全体の流れを忘れかけていて、ネットワークの一部しか興奮していないと、そのストーリー展開により得られる興奮を一部しか感じられない。同様の現象は、音楽を聴いていても、絵画を見ていても起きることだ。これはネットワークの興奮という初期投資を行うことで初めて可能なのである。そしてこの事情が遂行システムの機能に深く関係しているのである。
報酬勾配や探求モデル、遂行モデルの問題は、私たちの持つこだわり、ルーチンを守る傾向と深く関係している。それはまたアスペルがー障害などでは特に顕著であろうし、もちろん強迫性障害などにおいてもそれが見られる。しかしとりあえず健康な生活を送っている私たちも、程度の差はあっても皆この反復の傾向を持つ。皆お気に入りのワインがあり、行きつけの店があり、病み付きになっているスナック菓子があり、何度も聞いているCDがあるだろう。
なぜ私たちは同じことを反復するのか? 私は問題は反復というよりは常同性であると考える。いつも同じ事を行うと、結果として反復になるのだ。反復強迫というよりは、常同強迫である。私も同じような傾向があるから良く分かるが、同じことをするのは心地よく、安心感を与えることが多い。でも全く同じことの反復は面白くない。少しバリエーションがなきゃ。でもバリエーションは、こちらから意図しなくても、向こうから与えられるというところがある。同じ曲を聞いても、毎回聞こえ方が違うかもしれない。毎日同じ道を通勤しても、雨が降る日も風が吹く日もある。ルーチンをこなすことには、そのようなほうっておいても襲ってくる変化から身を守るための手段、平衡状態 equilibrium を作るための手段も含まれる。そう、常同性の追求は実は奥が深いのだ。
なぜ私たちは同じことを反復するのか? 私は問題は反復というよりは常同性であると考える。いつも同じ事を行うと、結果として反復になるのだ。反復強迫というよりは、常同強迫である。私も同じような傾向があるから良く分かるが、同じことをするのは心地よく、安心感を与えることが多い。でも全く同じことの反復は面白くない。少しバリエーションがなきゃ。でもバリエーションは、こちらから意図しなくても、向こうから与えられるというところがある。同じ曲を聞いても、毎回聞こえ方が違うかもしれない。毎日同じ道を通勤しても、雨が降る日も風が吹く日もある。ルーチンをこなすことには、そのようなほうっておいても襲ってくる変化から身を守るための手段、平衡状態 equilibrium を作るための手段も含まれる。そう、常同性の追求は実は奥が深いのだ。
プロ野球のイ●ロー選手などはよく引き合いに出される。なぜ毎日決まった時間に球場に表れて同じ練習のメニューをこなすのか。おそらくそれを行うことへの快があるのであろう。彼の脳のネットワークを容易に想像することが出来る。脳の中に、たとえば広大なネットワークがある。イ●ロー選手は、車で球場に向かうあたりから、もうある種のスイッチが入ってしまい、あるパターンに入り込み、そのあとは殆どオートマチックであるというようなことを、テレビのドキュメンタリーで語っていた。まさに水路を伝って水が流れるがごとく、回路が興奮を続けていく。 このルーチンをこなすからこそ、彼はその練習を積み上げることが出来、冒険をしない分だけ怪我も少なく、現役を何年も続けることが出来るのだろう。そのネットワークは刺激を受けて興奮することをいわば待っている状態であり、途中で止めることなどできない。イ●ロー選手なども、彼の野球用具を誰かが間違って触れたりすると、それが分かるというが、それが少しでもいつものところに置かれていないと耐えられないであろう。目が、手がすごく敏感なセンサーのようになっているのだろう。
それにしても習慣とは不思議である。私はアメリカ生活が長くて、コカコーラを飲むが、数ヶ月頻回に飲む時期が続いた後、見向きもしなくなるということが起きる。そして2,3年してまたコーラに戻るということを繰り返す。全く理由が分からない。しかしこれも一種の平衡状態の維持と考えることが出来るかもしれない。同じ植物を、獲物を食べ続けることには良し悪しがあるだろう。環境自体が大きく変化をしない限り、その場所で取れる獲物には限りがある。それを食べている限り安全だろう。動物には一種類の獲物を安全に摂取できた場合、目新しくて毒を含む可能性のある獲物に目移りをするような個体はそれだけ身を危険にさらすことになる。しかし同じものにこだわることで、その獲物や植物を取り尽くして資源の枯渇を招くことも避けなくてはならない。あるいはその獲物が少量持っていた毒物が蓄積されてしまうかもしれない。結局生命体は生き延びるために摂取する獲物に対して、同様の物にこだわる傾向を持ちつつ、どきどき別のものに目移りするという、常同性と変化への希求の共存を併せ持つものなのであろう。