私はおそらくムヒカ氏は現代の岩窟王であろうと思う。彼は13年収監された。南アフリカのネルソン・マンデラは27年の刑務所暮らしをしたという。モンテクリスト伯は14年間、しかも出獄した後に、復讐を遂げたのだ。すると復讐を遂げる代わりに清貧になったムヒカ氏こそ偉大な魂と言うべきか。彼の13年間の体験と、その「磨かれた報酬系」とはおそらく深いつながりがあるのであろう。ムヒカ氏は牢獄で、幸せとは何かを考えたはずだ。そして少なくとも彼にとっては、それは物質的な豊かさではないことに行き着いた。そして何が本当に自分を満足させるのかに気が付いたのであろう。
ごく単純に考えたい。ムヒカ氏は出獄して再び権力を手に入れ、物質的な豊かさを得ることを想像して満足をしただろうか? もちろんいい車を運転し、豪華な公邸に住むことは満足感をもたらすであろうが、それは同時に彼に何らかの不快や空虚さを感じさせたに違いない。彼にとっては自分の物質的な満足と、他人の不幸とが相補的であるとすら感じられるのであろう。そしてそれには想像力が必要だ。誰でも豪華な食事をとることはうれしいかもしれないが、同じテーブルの隣に座っている人がほとんど具の入っていない薄いスープしか啜れていないとしたら、その豪華な食事ものどを通らなくなってしまうに違いない。ムヒカ氏の隣に貧しい人が実際に座っていたわけではないだろうが、彼はそれを想像できたのであろう。ムヒカ氏が給料の9割を返上する裏には、何かそのような心が動いているとしか考えられない。(しかしそれにしては、彼はどうしてあんなに肥満しているのだろうか?決して豪華とは言えないものを「飽食」しているのだろうか?まあ誰もそれを咎める人はいないだろうが。)
ここで報酬系の磨かれ方を表現するならば、それは物質の摂取による満足だけで満たされることなく、精神的な満足、それも愛他性を伴う満足に特化しているということが出来るだろうか?
ここで精神的な満足のみならず、愛他性ということにことさら言及する理由を述べよう。精神的な満足を得ながら、自閉的、自己愛的である人はいくらでもいるのだ。数学的、物理学的な才能がある人にとっては、数式を頭の中で扱うことは、それだけで大きな満足を与えるであろう。ピアノの才がある人は、一日何時間もの演奏も喜びをもたらすはずだ。しかしそのような満足を追い求める人を偉大だという人はあまりいないだろう。その人の満足体験が、周囲の人のそれに連動していてこそ、人はそれを偉大だと感じるはずだからだ。つまり愛他性がその人にとっての満足の源泉になっている必要がある。
偉大な魂はブレない報酬系を持つ
ここで私が最初に述べた偉大なる魂の話に戻りたい。物事に固執せず、余計な期待をせず、あきらめがいいということと、愛他性問題はどのように関連しているのだろうか? こう考えて欲しい。
愛他的であることは、自己愛的な満足を得ることとは対極的である。自己愛とは他人から満足体験を吸い取る人である。人が自分を振り向かなかったり、自分を称賛しなかったりすると不満に感じ、怒りを覚えるはずだ。愛他性の場合は、他者からの入力ではなく、自分からの出力が問題となり、それだけ自分のコントロールの対象になる。人から愛されている補償はどこにもないが、人を愛することはいつでも好きなだけ可能なのである。
愛他的であることは、自己愛的な満足を得ることとは対極的である。自己愛とは他人から満足体験を吸い取る人である。人が自分を振り向かなかったり、自分を称賛しなかったりすると不満に感じ、怒りを覚えるはずだ。愛他性の場合は、他者からの入力ではなく、自分からの出力が問題となり、それだけ自分のコントロールの対象になる。人から愛されている補償はどこにもないが、人を愛することはいつでも好きなだけ可能なのである。
ただし「諦めのよさ」と愛他性とは同一の問題ではない。愛他的であることは、諦めのよさに貢献する要素であるとしても、愛他性を含まない諦めのよさもある。たとえばプロのトレーダーを考えよう。一つの銘柄で損失が出たからといってアツくなることなく、冷静に新たな投資先を考えるだろう。他方投資依存症に陥っている人の場合は、損失が出ると一気にカーッとなって、それを取り戻そうと無理な投資をするかもしれない。優秀なトレーダーであるということは、例の射幸心がいたずらに刺激されないことと言い換えることができるかもしれない。しかし私の中では、それは死生観ともつながっていく。というかそちらに結び付けていかないと面白くない。
もし自分の命が近い将来奪われるとしたらどうだろう。そこでパニックに陥る人もいれば、平然と受け止める人もいるだろう。後者の場合に何が起きているかといえば、常にいつ死んでもおかしくないという覚悟を持っていることといえるだろう。でもそれは現在の生の喜びをいささかも減じることはないのである。私の出会った偉大な魂たちは少なくともそうであった。今体験していることは喜びを与えてくれる。しかしそれは同時にいつ失われてもおかしくないという覚悟がある。これはどのような報酬系の仕組みなのだろうか? それは今の喜びが偶々、偶然に得られたという自覚があるということではないだろうか? 今のこの喜びは確かなものだが、それがこれからも続くことを保障はしない。そのことも同時に分かっている。
しかしそう考えると、「今の生の喜びを少しも減じることがない」、ということの意味が、書いている自分も分からなくなってくる。少なくともそれが、「これを手放したくない」と思わせるようなものだったら、「なくても平気」とあっさり手放せるのだろうか?
「あきらめの良さ」は、報酬系からはどうもいまひとつ理解できない。諦めが良い、とはたとえば、砂漠で水を求めて歩いていて、遠くに自販機を見つけて「やった!」と思った時、実は半分しか喜びを味わわないということだろうか? 「やった!」くらいとか。ということはその人の報酬系は、常人の様には容易に興奮しないということだろうか? ぬか喜びをしないように訓練されていると考えるべきか?
報酬系が鍛えられ、磨かれるとはどういうことかを考えた場合、一つの答えは、予想した快を得られなかった際の苦痛を最小限に抑えるということであろうか?過剰な期待とそれに続く失望は明らかに人の心にとってのストレスである。そのためには、報酬系は将来の快の予想をした後に、心の中でそれが得られなかったことを想定し、その目減らしを行っているのではないか。つまりドーパミンの反応は、二相性ではないだろうか? 彼は体験がことごとく刹那的であり、いずれは失われるものという見方をする。体験は、「それが起きることがうれしい」のではなく「それがもし起きたらうれしい」という仮定法でしか体験しないのではないか。そのように報酬系が出来上がっているのだ。
以上、磨かれた報酬系の二つの特徴を示したことになる。
1. 愛他性に基づくため、他者による失望の要素が軽減されている。そしてそれはより報酬系を自分のものとすることを意味するのだ。(つまりはそこでの快、不快を他者の手にゆだねることが少ないということである)
2. 先取の快が「仮説的」であり、条件付きのものである。そのために過剰な期待を抱いた末の失望という要素が極力少なくなっていると考えられるのだ。