2016年7月30日土曜日

推敲 3 ①

3章 Cエレガンスは報酬の坂道を下っていく

私の知人Aさんの話だ。彼はまだ50歳代の有能な商社マンだった。若い頃は世界各地の油田地帯を飛び回り、重要な商談をいくつもまとめてきた。しかし長期間にわたって家を空けることが多く、病弱な妻の面倒は彼女の両親にまかせっきりであった。ところが定年を前にして腰を痛め、入院をして何十年ぶりかの休養を取ることになった。そしてAさんはふと考えたのである。
「自分はこんな人生で幸せなのだろうか?」
 正直言えば、仕事を本当の意味で楽しいとは思っていない。本来は出不精なのだ。自宅で料理の腕をふるっているほうがよっぽどいいと感じる。自分はひょっとしたら妻の介護をして家事をするのが性にあっているのではないか? まさか? これでもバリバリの商社マンである。高収入でまだまだ働いて会社に貢献することを期待されている。
それでも彼は会社をすっぱりやめ、「主夫」になった。幸い蓄えは十分であり、しかも妻の実家は田舎の旧家で相当な資産があったので、金銭的には困らない。彼はそれまで雇っていたお手伝いさんを解雇し、家の掃除から料理まで一人でこなすようになった。朝は毎日7時おきで90分間、家中の部屋を回り、大きな音を立てて掃除機をかける。絨毯は同じところを少なくとも五往復。高価なペルシャ絨毯が擦り切れんばかりの勢いだ。それから手の込んだ朝食作り。コレステロール値の高い妻の健康を気遣って、カロリー計算もおろそかにしない。その後は家計簿の整理。エクセルに細かな表を作り、アマゾンで注文して買った文庫本一冊まで支出を記入していく。もちろんその合間を縫って妻の介護。リハビリ通院の送り迎えも欠かさない。
そんな「仕事」に没頭して3年たったAさんに聞いてみた。そろそろ復職を考えているのではないかと思ったからだ。彼の有能さを買って、戻ってきてほしいという会社からの声は今でも多いという。
「あなたは今、幸せですか?」
彼は「もちろんです。」といった。夕方には5キロのジョギングを欠かさない彼の顔は少し日に焼けていかにも健康そうだった。「毎日が充実しています。スケジュールがいっぱいで、こなすのがやっとです。自分がいかに家事に向いているかを実感しました。本当は人と会うのは苦手なんです。」数々の商談をまとめた彼とは思えない言葉が返ってきた。
 いったい何が彼を駆動しているのだろう? 自己顕示欲でもなく、おそらく一般に言うところの自己実現でも、自己達成感でもない。金銭を得ることとも違う。でも一つだけ確かなことがある。彼は日々のスケジュールをこなすことに喜びを感じている。誰が何といおうと、彼にとってはそれで幸せなのだ。何といううらやましい話だろう?

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人は、動物は何を求めて行動するのか? 人には様々な趣味や楽しみがあり、仕事がある。それぞれが違った人生であり、違った脳を持ち、違った目標を持って生きていく。
「何が人を動かすのか?What makes people tick?
私はこの素朴な疑問をおそらくこの30年間持ち続けながら精神科医になり、精神分析を学び、現在に至るが、いまだに解決がつかない。しかし30年前に持っていた疑問に対して、今はその解決の糸口を持っていると感じる。それは報酬系という人間の脳のシステムと深くかかわっているということである。そして人間が何かに惹かれて行動するように、もっとも下等な動物は、それが自由な運動を獲得し、敵を避けて餌を求めるという行動をとり始めたときに、すでに私たち人間と同じような原理で動いていることを知った。そこでも決めてはやはり報酬系。報酬系を知ることが心を、心を持った人間の行動のなぞを知る手がかりになる。
 
Cエレガンスは幸せなのだろうか?

人の心を動物と言う観点から考えるとき、私の心はどうしてもCエレガンスに向かってしまう。正式な名前はCaenorhabditis elegans(カエノラブディティス・エレガンス)あまりに長たらしい名前なので、科学者たちも単純にC.エレガンスと呼ぶ。(本書では後に「Cエレ君」などの名前で登場する。)

C.エレガンスの雄姿
この体長一ミリほどの小さな虫(正式には線虫と呼ばれる)は、一種のモデル生物として実験に非常によくつかわれる。体細胞は約1000個。神経細胞は302個と決まっている。しかしこれほど単純なのに、学習をし、もちろん生殖もする。そして走性を示す。走性とは好みの刺激、例えば匂いや光や化学物質の方向に進んでいく、という性質である。Cエレガンスの染色体は6本あるが、そのゲノムはいち早く解析された。その結果、6本の染色体上に約 19000 個の遺伝子の存在が予測された。(これは人の遺伝子数3万程度と比べてもものすごく多いという印象を与える。)