2016年7月18日月曜日

精神療法 ②

<スペクトラムという考え>
そこでそこで私はスペクトラムの考えを提示したいと思います。要するに精神療法には、頻度も時間も様々なものが考えられ、どれか一つが正解ではないという主張です。これは週に一度、30分のセッションを持っている部分の私を救う目的がありますし、私と一緒にやはり30分セッションをしていただいている7人の心理士さんたちの為でもあります。
 このスペクトラムには、一方の極に、フロイトが行っていた「週6回」があり、他方の極に、おそらく私が精神療法と呼べるであろうと考える最も頻度の低いケース、つまり3ヶ月に一度15分、というのが来ます。大部分はこの両極の間のどこかに属するのです。その横軸を、仮に精神療法の「強度」とでも呼びましょう。一番左端はフロイトの週650分の、強度10の精神分析です。通常の週450分は、強度8くらいでしょうか。週一回は強度4くらいになるでしょう。左端には、私の患者Aさんの、3か月に一度15分が来るでしょう。これを強度0.5としましょう。
私が言いたいのは、強度は違っても、それぞれが精神療法だということです。その強度を決めるのは、経済的な事情であったり、治療者の時間的な余裕であったりします。患者の側のニーズもあるでしょう。一セッション3000円なら毎週可能でも、一セッション6000円のカウンセリングでは二週に一度が精いっぱいだという方は実に多いものです。あるいは仕事や学校を頻繁に休むことが出来ずに二週に一度になってしまう人もいます。その場合二週に一度になるのは、その人のせいとは言えないでしょうし、二週に一度なら意味がないから来なくていいです、というのも高飛車だと思います。
私は週4回のケースを持っていますし、それを受けたこともありますので、この場でこのスペクトラムを話す権利を得ていると言ってもいいでしょう。そうでなければ「週4回のセッションを受けたり、行ったりしないで、お前に何が言えるのだ」と言う事になってしまいます。
このスペクトラムの特徴を二つだけ挙げておきます。おそらくその強度に関しては、一般的な意味ではなだらかな形で弱まって行きます。ただしそれはあくまでもなだらかです。つまり、私はたとえば週に4回と3回で、あるいは週1回と二週間に一度で、あるいは週一回のセッションが45分と35分とで、それこそ越えられないような敷居があるとは思えません。私のメンタリティーに変わりないし、そこには決まった設定、治療構造のようなものが保たれていると考えています。私は精神分析は週4回以上、ないしは精神療法なら週1回以上、という敷居は多分に人工的なものだと思います。ここでスペクトラムの右側、つまり頻度も時間も少ない方向を、仮に精神療法の強度が弱まる方向、と表現するならば、強度が弱まっていく。これまである程度のペースで行っていたことの、そのペースが弱まる。物足りないという思いがする。何しろ四輪駆動が軽になるわけですから。でも繰り返しますが、軽でも行けるたびはあるわけです。
このスペクトラムのもう一つの特徴には、これには幾つかの座標があり、その意味では一次元的ではないということです。一つは頻度の問題があります。そしてもう一つは、セッション一回当たりの時間の問題です。これもはてはダブルセッションの90分から5分まで広がっています。さらには開始時間の正確さということもあります。これも驚きのことと思いますが、精神科医療には、患者さんの到着時間ファクターがあります。そして医師の診察が先か、心理面接が先かというファクターがあります。医師が心理面接の開始5分前に、例えば心理面接の始まる35分前に、とりあえず患者さんに会っておこう、と思い立ちます。もちろんギリギリ3時までには心理士さんに渡せるという算段です。ところがそこで薬の処方の変更に手間取り、自立支援の書類を持ち出され、あるいは自殺念慮の話になり、とても5分では終わらなくなります。心理士としては医師のせいで遅れて開始された心理療法を、定刻に終わらせるわけにはいきません。こうして起きてはならないはずの開始時間のずれが、実際には起きてしまいます。すると開始時間、終了時間という、治療構造の中では比較的安定しているはずのファクターでさえ、安定しなくなります。すると患者さんは、開始時間は不確定的、という構造を飲み込むことになります。これもまたスペクトラムの一つの軸です。さらには治療者の疲れ具合、朝のセッション化午後のセッションか、等数え上げればきりがないほどのファクターがそこに含まれます。
これを私はあえて治療的柔構造と呼びたいと思います。そう、私は大まじめでやっているのです。