2016年7月15日金曜日

推敲 1-②

こんなネズミの話を聞いて、それを人に応用することを夢に見る私のような人間は不謹慎だろうか? しかしこのラットの実験に先んじて、それを人間に行った人がいた。それがこれから紹介する、ロバート・ヒース博士であった。
米国ルイジアナ州のニューオーリンズにあるチューレーン大学。そこで1950年代に初めて精神科と神経内科を合体させたのがドクター・ヒースだった。(以下、情報源は「脳が『生きがい』を感じるとき」(グレゴリー バーンズ (), 野中 香方子 (),日本放送出版協会、2006年)
彼の最初の実験は1950年ということだ。脳の深部、脳幹に隣接した中隔野という部位は、人間でもそこの刺激で快感が生まれる。そこに彼が注目して行った実験のフィルムも残っているという。ストレッチャーに横たわる若い女性の姿。その脳には電極が埋め込まれていて、そこに電気が流れるようになっている。以下はバーンズの著書からの引用である。
女性は微笑んでいた。「なぜ笑っているんですか?」とヒースが尋ねる。「わかりません」と彼女は応えた。子供のように甲高い声だった。「さっきからずっと笑いたくってしょうがないんです。」彼女はくすくすと笑い出した。「何を笑っているのですか?」女性はからかうように言った。「わかりません。先生が何かなさったんじゃないの。」「私たちが何かしていると、どうして思うんですか?・・・
こうして実験は続けられたが、ヒースと彼女の会話には明らかに性的なものが感じられたという。ヒースは他の患者にも中隔野への刺激を行い、その多くはそれを快と感じたというが、反応は人それぞれであったらしい。電極をほんの12ミリ動かしただけで、むしろ苦痛の反応を引き起こしたりする。中にはそれにより激しく怒りを表出した人もいて、ヒースの実験を非人道的であると非難する学者もいたという。
結局バーンズの本からわかることは、快感中枢に電極をさして最後を迎えるというアイデアはうまくいきそうにないということである。彼の記述の重要な指摘を再び引用する。
「特に人間の場合に顕著な脳深部刺激のこうした不安定さから、痛みと快感は、脳の別々の部位に存在するわけではなく、むしろ同じ回路の様々な要素を共有していることがわかる。」(139ページ)
バーンズの治療に関して極めて重要なことも書いてある。「もっとも重要なことは、この種の治療では、耐性が見られないことだ」本当だろうか? 
私が想像するのは、たとえば統合失調症の患者さんの興奮が、一定の電圧で抑えられている際、それが徐々に効かなくなり、電圧を上げていかなければならなくなった、ということがなかったという意味であろう。もっともこれなら、抗精神病薬などの効果と同じである。統合失調症の患者さんに用いるリスパダールがそのうち3ミリでは効かなくなり、10ミリ、20ミリ、どんどん増えていく、つまり耐性が出来てくる、ということは起きない。しかしもし快感をもたらす刺激にも耐性がないならどうであろう? 同じXボルトの電流で多幸感を味わい続けるとしたら? これはちょうどモルヒネYmgがずっと効き続けるということになり、麻薬を使用する際のもっとも困った問題である、とめどもなく使用量が増えていくという問題は生じなくなる。真相はどこにも書かれていないようだが、これが本当だとすると、脳刺激は計り知れない可能性を秘めていることになる。精神科医の見た夢も、まんざら不謹慎だけともいえなくなってくるではないか。
ちなみにニューヨークタイムズには、ヒース先生がフロリダで1999年に84歳で亡くなった時の追悼文が掲載されている。そこには、彼が統合失調症に対する画期的な仕事を行った医師、として記載されているが、同時にCIAにマインドコントロールに関する研究を依頼されていた事実にも触れられている。これはおそらく脳刺激の有する様々な可能性にアメリカ政府も目をつけたということを意味するのであろう。
ここでドクター・ヒースの研究を俯瞰する上で、その研究の歴史をまとめてみよう。
以下はBruce Leonard という人の記述を参考にする。(David Bruce Leonard 2012How to Worship the Goddess and Keep Your Balls: A Man's Guide to Sacred Sex Roast Duck Productions )。
ヒース先生は難治性の障害を抱えた患者、例えば極めて暴力的であったり抑うつ的であったり、統合失調症、治癒不可能な癲癇、震戦、深刻な疼痛を持つ人々に対して、治療を行ったという。患者の数は70名程度であったというから驚く。患者は何年にもわたって脳の特定の場所に電極を埋め込まれた。一部の患者はそれにより状態が急速に改善したという。彼は患者が快適な気分である時に、中隔野と外側扁桃核が興奮していることを見出した。ここが快感中枢、または報酬系というわけだ。また患者が強烈な怒りを体験している時は、不快中枢ともいえる領域、つまり海馬、視床、被蓋野、そして扁桃核の半分が興奮していたという。(電極にはもちろん刺激を与えるとともに、そこの電位を記録する意味もあったのである)。そして不快中枢を刺激すると、快感中枢の興奮が止まり、逆もしかりという関係を見出した。両方はシーソーの関係にあった。
 そこでヒースが考えたのは、統合失調症の患者が幻覚や妄想などの体験をするのは、それらを「中和」するような快感を十分に体験できないからではないかということである。そしてガンによる痛みを持った患者の場合は、快感中枢の刺激でそれが和らぎ、また怒り狂った患者はその気持ちが消えたというのだ。同様のことは鬱、躁、自殺傾向、他殺傾向にも言えた。彼は最終的には小脳から入って報酬系を刺激する方法に至ったという。そうすることで脳の前部のより侵襲性を伴いやすい部分を避けたのである。また電極を置いて、ペースメーカーで刺激できるようにしたという。そして幻聴が聞こえてきた場合に、電線が断線していることがわかる、などのことがあったという。
 たとえば1977年には、奥さんの首を絞めろと言う幻聴に悩まされた患者に電極を差し込み、帰宅させた。しかしまた声が再開したので調べたら、断線していたという。このようにして70名の患者の少なくとも半数はこの治療により効果があったとされる。