2016年6月21日火曜日

報酬の坂道 ①

Cエレガンスは報酬の坂道を下っていく

ある知人の話である。彼はまだ60前の有能な商社マンだった。もっと若い頃は世界各地の油田地帯を飛び回り、重要な商談をいくつもまとめてきた。しかし長期間にわたって家を空けることが多く、病弱な妻の面倒は彼女の両親にまかせっきりというところがあった。ところが定年を前にして腰を痛め、入院をして何十年ぶりかの休養を取ることになった。そしてふと考えたのである。
自分は幸せなのだろうか?
  本当は妻の介護をして家事をするのが性にあっているのではないか? まさか? バリバリの商社マンである。高収入でまだまだ働いて会社に貢献することを期待されている。
  それでも彼は会社をすっぱりやめ、「主夫」になった。幸い蓄えは十分であり、しかも妻の家は旧家で資産があったので、金銭的には困らない。彼はそれまで雇っていたメイドを解雇し、家の掃除から料理まで一人でこなすようになった。朝は毎日7時おきで90分間、家中の部屋を回り、音を立てて掃除機をかける。絨毯は同じところを少なくとも五往復。高価なペルシャ絨毯が擦り切れんばかりの勢いだ。それから手の込んだ朝食作り。糖尿病予備軍の妻を気遣って、カロリー計算もおろそかにしない。その後は家計簿の整理。エクセルに細かな表を作り、アマゾンで注文した文庫本一冊まで支出を記入していく。もちろんその合間を縫って妻の介護。リハビリ通院の送り迎えも欠かさない。
そんな「仕事」に没頭して3年たった彼に聞いてみた。そろそろ復職を考えているのではないかと思ったからだ。彼の有能さを買って、戻ってきてほしいという会社からの声は今でも多いという。
「あなたは今、幸せですか?」
彼は「もちろんです。」といった。夕方には5キロのジョギングを毎日欠かさない彼の顔は少し日に焼けて健康そうだった。「毎日が充実しています。スケジュールがいっぱいで、こなすのがやっとです。でも自分がいかに家事に向いているかを実感しました。本当は人と会うのは苦手なんです。」数々の商談をまとめた彼とは思えない言葉が返ってきた。