2016年6月20日月曜日

快感原則 ③

一部は前書「脳から見た心」と同じ内容である。

ここで一つ種明かしをすると、実はこれまで「快感原則」、つまり気持ちいいことはやる、としていたところに、「不快の回避」というファクターもある程度は含めていたのである。不快の回避はしばしば安堵感を生むので、それも快感としてカウントしてしまおう、ということだったのだ。確かに両者は区別しにくいところもある。しかし厳密に言えば、不安の回避と快感そのものを一緒にするわけには行かない。
たとえば散歩の例を思い出そう。そこで快感のリストに挙げられるものとして次のように述べた。歩くこと自体を気持ちよく感じている場合には、それを各瞬間に体験していることになるだろう。それ以外にも終わった際の「今日もルーチンをこなした」「体にいいことをきちんとした」という達成感を先取りして体験していることになる。ホラ、快のリストに実は「不快の回避」が含まれていたではないか。「今日もルーチンをこなした」というのは、一種の義務を自分に課して、それを遂行したということを意味する。それは散歩をしないことにより生ずるさまざまな健康上の問題を考えることの苦痛や不安を回避するという意味を持っていたのだ。
 考えてみればお預けの行動を分析する際に、最初から不快の回避をしっかり数え入れておくべきであった。というのも私たちの行動のかなりの部分は、この不快の回避としての要素を非常に多く持っているのだ。いやいやながらする勉強、不承不承に通う職場などを考えればそれは明らかであろう。それに何しろまったく快の要素がなく、「不快の回避」だけの行動というのもいくらでもあるからだ。誰かにムチをもって追いかけられて必死になって逃げているという場合などはそうだろう。
  ところで「すべての行為は快の追及と不快の回避の二つの要素からなる」という提言は、誤ってはいないものの、ちょっとしたトリックがある。これは一種のトートロジーとなりうるのだ。この点を少し説明しよう。
ある行為を行うということは、「その行為を行わないという行為を行わないこと」でもある。先ほどの犬のお預けの例では、餌に突進するということは、「お預け」に従うのを中止すること、つまり「えさに突進するという行為を行わないこと」をしないこと、でもある。するとある行為にともなう快のリストには、その行為をしないことによる不快を回避すること、という項目は必然的に含まれることになる。それも結局は「不快の回避」の一つの形といえるのだ。では私はどうしてこれを快の追求と同じものとして扱ってきたのか?それは不快の回避にはグラデーションがあり、それ自身が不快な「不快の回避」から、しないではいられない、つまりそれ自身が不快ではない「不快の回避」までさまざまなものがあり、しかも後者から前者への以降が、私たちの精神の力で、想像力で可能だからだ。(私たちの想像力が、不快の回避から新たな快を生むことが出来る。それをちょっと奇をてらった言い方ではあるが「快の錬金術」と称して、次に論じよう。それはともかく。)
整理しよう。
散歩をすることの快、散歩をしないことによる不快の回避。両者は時々、区別がつかないほど似ることがある。散歩をすごくしたい場合には我慢をすることが苦痛だから。これは当たり前でトートロジカルとも言える。(散歩をしたい≒散歩をしないではいられない。)
散歩をしないと三日坊主といわれるから、というのはどうだろう? これは「三日坊主と言われないため」の散歩ということになり、積極的な快はそこにはあまり存在しない。散歩をしたからといって積極的な評価を受けるわけではないのである。でも理論的な思考や想像力を働かせて最終的に選択するものだ。その想像を必要とするという意味では「心の労働」ともいえる。散歩をしないことの苦痛は将来生じるのであり、今は困ることではない、でもよくよく考えると、やはり散歩をしないことはマズイ、だから散歩をするというわけだ。これを私は「不快な『不快の回避』」、と呼ぶことにする。「不快の回避」そのものがつらい、という意味だ。一方散歩をしたくてたまらない場合は、「不快の回避」は決して不快ではない。むしろ望むところだ。ここに違いがある。
 しつこいようだが説明を追加しよう。わかりやすいタバコの例で。
タバコを吸い続けると癌になるとテレビでやっていた。でも今、この一本を吸う事で突然癌になるわけではない。ヤメたくないなあ。長年吸っていたんだし。でも止めると決めたし。これが不快な「不快の回避」。こちらは止めることのメリットが実感できず、しかし過去にすべきではないこと、長期的には不快であるから止めるべきと、自分で認定し、評価を下したことだからというそれだけの理由で回避する不快だ。ではこれを不快な「不快の回避」から、不快ではない「不快の回避」にするのはどうしたらいいかというと、その「タバコを吸うと癌になるぞ」というテレビの内容を思い出し、あるいはさっき吸ったタバコのタール成分が肺の細胞に突然変異を起こしたことをありありと想像することである。一種のイメージトレーニングだな。これは実は副流煙を毛嫌いする人が皆やっていることなのだ。「今、となりの喫煙者の口から出て目の前を漂っているこの煙を吸い込むと、肺に入って、肺が黒くなって・・・・。オー、ヤダヤダ。」もしそれを喫煙者自身がありありと実感したら、これから吸おうと思っていた目の前の煙草をゴミ箱に捨てることは、鞭を持った人に追いかけられるときの気持ちと似て、特に苦痛を伴うわけではなく(恐怖はあるだろうが)、むしろ反射に近い行動になるのだ。
今日発見したことを急いでまとめる。「不快の回避」と呼ばれるものにはグラデーションがある。一番左端にあるのが、その行動をしないことのメリットの実感がなく、ただ「自分が決めたから」「人に言われたから」というもの。それをしないという決断自身は自分の下したものである。人から「止めなさい」といわれてしぶしぶ止める場合はどうだろうか? おそらく止めなさいといった人間との関係性が重要になるだろう。前者は止めないとデメリットがあることを自分で想像し、しかし実感がなく止める。それに比べて後者はいわば他者に脅されて止めるのであり、そこに一種の「恐怖」や不都合が介在するために、自動的、反射的なものに近くなり、左端からは一歩右にずれることになる。この一番端の「不快の回避」は、不快自体が実感を伴わない、記号化したものであることに注意すべきであろう。そして私はこの種の「不快の回避」こそが一番不快であろうと思う。「不快の回避」のメリットが実感される度合いにしたがって、この端から離れ、最後にはまさに「鞭を持て追われる」状態になるが、これは「快」にかなり近くなる可能性がある。なぜなら逃げおおせた場合には、恐怖から解放されるからだ。どういうことか。不快の体験の際は、不快が払拭されること自体を切望するようになる。すると苦痛の終わりは、事実上「快」に変質するからだ。
ただしこの「不快の回避軸」上のどこにあるかという問題と、その時の不快の度合いは必ずしも一対一対応することは出来ない。タバコの例だと、「止めたと決めたから」というだけで喫煙できないことの苦痛(一番左端)は、「タバコは怖いから」(少し右側)よりは大きいだろう。でもたとえば修士論文を書くというのはどうだろう。まだ締め切りが先(左端)だとダラダラ書けるから、さほど苦痛ではない。しかし締め切りが近づくと、締め切りに遅れることの恐怖も実感されることになり、軸上の右に移動するわけだが、それがどんどん苦しくなってくる可能性がある。それは論文を書くスピードも速めなくてはならないからだ。私は個人的には、締め切りが迫って急いで仕上げなくてはならない論文を書いているときが一番の苦痛である。その苦しみを味わうくらいなら、早めに準備する。
 ただし切羽詰って書いているうちに、少し躁気味になり、ノッてくるということが起きると話は違う。今度はそれ自身が楽しくなるという人がいる。ここが人間の複雑なところだ。人間の行動は、突如としてそれそのものが快楽の源泉となったり、不快の源泉になったりする。