2016年5月28日土曜日

報酬系 ⑥

報酬系の興奮=善とする根拠

 それにしても善、とは何だろう?人として正しい道。肯定されるべきこと。それを行うことが誰からも非難されず、むしろ肯定されるという感覚。これが快楽と結びつくのには理由があるのであろうか? おそらくそうだろう。善と快は生物の誕生から結びついていた、というのが私の仮説である。(と言ってもそんな大げさなものではないが。)
善とは、それを執行することにいかなる形での抑制も存在しないものではないか? それが他を傷つけるのではないか。それにより他から攻撃をこうむるのではないか。自分がそのために傷つくのではないか。善とはその種の抑制や懸念から解放され、一途に向かっていくことである。そしてそれは、生物が生命を維持する上で最も重要な機能なのだ。エレガンスは好きな匂いに向かって泳ぐ。おそらくそれは彼(!?)にとっての生存の可能性を高める。匂いに向かって泳ぐことに迷いがない個体の生存率がそれだけ高かったはずだ。快を与える行動を無条件に選び、志向する個体。これが自然選択に生き残って行く個体の基本性質なのだろう。生命の進化において、心地よさが無条件で選ばれることは、おおむね適応的といえるのだ。しかし快がことごとく生命の維持にとって合目的的という保証はない。この飽食の時代には食べ物は身の回りに溢れている。快を追及するだけならば、人は永遠に口当たりのいい食事を摂取し続けるだろう。それは純粋な善とは程遠い。しかしそれでも快を善として体験するという習性は残る。そして田●まさしのように、覚醒剤が「安息」になってしまうのだ。それが本来自分が選ぶ場所、本来的に戻って行く場所になってしまうのである。