私たちの日常の多くはストレスの連続である。思い通り、期待通りにいかないことばかりである。それでも私たちが精神的に破綻することなく日常生活を送る事が出来るのは、実はここに述べた「ささやかな楽しみ」のおかげである。ちょうど身体が一日の終わりに睡眠という形での休息やエネルギーの補給を行うのと一緒であり、これは魂の「休憩」なのだ。「ささやかな楽しみ」を通じて、人は日常の出来事の忌まわしい記憶から解放され、緊張を和らげる。その時間が奪われた場合には、私たちは鬱や不安性障害といった精神的な病に侵される可能性が非常に高くなる。「ささやかな楽しみ」は、それにより人が社会生活を継続して送るために必要不可欠なものなのだ。「文化的な最低限度の生活を営む権利」をおそらく凌駕するものである。ただしおそらく「ささやかな楽しみ」の前提として文化的な最低限度の生活が保障されていることは有利に働くであろう。たとえば雨風を十分にはしのげないような住居や、PCもテレビもないような困窮した生活では「ささやかな楽しみ」は望むべくもないかもしれない。
おそらく私たちの祖先は、「ささやかな楽しみ」を善として、良きものとして体験することを習慣として身に着けたのであろう。そしてそれはおそらく前、悪の母体となった可能性がある。そしてそれをよきものとした個体が生き残ってきたものと思われる。
ここで報酬系の関与する快、不快が善、悪と言った倫理観と結びつくのは、この章の一番のポイントである。ひとことで言えば、心地よい活動に浸っている時は、それに対する超自我的な姿勢を放棄することなのだ。それは「ささやかな喜び」をよりスムーズに、抵抗なくその人が味わうための詭計と言ってもいい。
しかし・・・・である。ここで大きな問題があるのは確かなことである。「ささやかな楽しみ」はしばしば葛藤を生み、ただ単に楽しいでは済まされないと言われてしまう可能性がある。田●まさしにとっては、一時の覚せい剤がこの「休憩」だった。それはその人の人生を狂わし、社会生活を台無しにし、やがては報酬系を乗っ取ってしまう可能性のある「休憩」でもある。報酬系の興奮=「休憩」=人生を維持するための「ささやかな楽しみ」は、とんでもない錯覚だったりするのだ。