帚木先生はそれから、ギャンブル依存に陥った人が、キャッシュを求めて盗みを働くということもあり得るとおっしゃった。更衣室でたまたま同僚の所持品を見つける。中から現金を抜き取った際に思うことはおそらく「ああ、これで仕事の後にパチンコがやれる」なのである。
ここから導き出すことのできる仮説がある。私たち個人が持つ倫理感は、報酬系を刺激する事柄を善、痛み刺激となる事柄を悪、とする傾向にある、というものだ。この仮説は、人によっては奇妙に聞こえるかもしれない。しかしこの様に考えないと、人の心はあまりに大きな矛盾を背負っているために壊れてしまうだろう。
もちろんギャンブル依存に陥った人は、「善悪が分からなくなっている」と考えることもできるであろう。というよりはむしろそちらの方が自然かもしれない。しかしより合理的な考え方は、その人にとっては、パチンコ屋で玉を弾くことが善、そのためには家庭を顧みないことも、お金を盗むことも正当化される、という観念が、通常の善悪に対する観念を凌駕し、そのためにその人の倫理観そのものが改編されてしまっているというものである。
快を善とする心の成り立ち
たとえばもう何十年も喫煙を続けている人を考える。幸いに深刻な健康被害は起きていない。その人が突然「喫煙したら罰則が科せられる」という法律が成立したことを聞いたとしたら、不当なことだと憤慨するだろう。やがて煙草の被害が明るみになり、副流煙がいかに他人の健康を蝕んでいるかが分かっても、彼は心の底から喫煙に罪の意識を感じることはないはずだ。「どうしてこれまで問題にされなかったことをやかましく言うようになったんだ?」「ほかに人の健康にとって害になることはいくらでもある。たとえば車の運転はどうなんだ?たくさんの人が交通事故で命を失くしているぞ!」「極端な話、塩分で高血圧が引き起こされ、糖分で糖尿病が引き起こされるんだから、食べ物だって皆法律で厳しく規制されるべきだろう」などと屁理屈はいくらでも出てくる。そうやって自分を正当化することに人間は精神的に生き延びているのである。
もう一つの例として、連続窃盗犯を考えてみる。私たちの社会には、窃盗をすることに快感を覚える人間がいる。彼らにとっては何らかの形で盗みは正当化されてしまうだろう。「私は恵まれない境遇で金銭的に余裕がない。しかしそれは社会の不平等のせいだ。だから盗む正当な権利があるのだ」など。もちろん窃盗に快感を覚える人が、同時に強い倫理観を持ち、その矛盾に悩まされることがあるだろう。しかしやがては自分にとって「合理的」な言い訳を見つけ出すことで、少なくとも窃盗は深刻な罪と感じられることはなくなるであろう。例えば、「少なくとも自分は人を害してはいない。それだけはしないというのが私のポリシーだ」、などと自分に言い聞かせることで、罪の意識はいくらでも軽くなりうるのである。