2016年5月25日水曜日

倫理観 ③


快を善とする心の成り立ち

人は本来、自分にとって心地よいこと、自分の報酬系が肯定することは、絶対的に肯定するものである。自分はこれに生きるのだ、と思う。これぞ本物、という感じ。自分にはこれしかないし、これのない人生は考えられない。仕事をしていても、人と話していても、最後はそこに帰って行くことを前提としている。心をいやすべき自宅や棲家の感覚と言ってもよい。
 もちろん心地よいことが同時に道徳心に反していたり、他人にとって害悪であったりするかもしれない。また心地よさが同時に不快感を伴うこともある。するとその快楽的な行動を全面的に肯定することは難しくなるであろう。しかし逆にそのような障害がないのであれば、その行動は、その人にとって疑うべくもない肯定感とともに体験される。無条件の肯定と言ってもいい。人間とはそういうものだ。
たとえばもう何十年も喫煙を続けている人を考える。幸いに深刻な健康被害は起きていない。彼にとって喫煙は安らぎであり、生活にはなくてはならないものだった。私が子供の頃の昭和の世界は、皆がどこでもタバコを吸い、通学のための汽車の中は、向こうの端が見えないくらい、たばこの煙でもうもうと立ち込めていたものだ。
 だからその「愛煙家」たちが突然、「喫煙したら罰則が科せられる」という法律が成立したことを聞いたとしたら、どうだろう? きっと彼は憤慨し、その法律を不当なものだと思うだろう。やがて煙草の被害が明るみになり、副流煙がいかに他人の健康被害を生んでいることが分かっても、彼は心の底から喫煙に罪の意識を感じることはないはずだ。「どうしてこれまで問題にされなかったことをやかましく言うようになったんだ?」「ほかに人の健康にとって外になることはいくらでもある。たとえば車の運転はどうなんだ?たくさんの人が交通事故で命を失くしているぞ!」「極端な話、塩分で高血圧が引き起こされ、糖分で糖尿病が引き起こされるんだから、食べ物だって皆法律で厳しく規制されるべきだろう」などと屁理屈はいくらでも出てくる。そうやって自分を正当化することに人間は精神的に生き延びているのである。

覚せい剤所持および使用の罪で何度も収監されている元コメディアンの田●まさしが、こんなことを書いている。
「2回目に捕まった後、刑務所に入っている間も含めて6年近くクスリを止めていた。なのに現物を目にすると『神様が一度休憩しなさいと言ってくれているんだ』と思ってしまった」(夕刊フジ2016 212()配信)

覚せい剤が休息だなんて、とんでもない話だと思うかもしれない。でもこれは報酬系の考え方からすると、すごくよくわかる話である。いや、彼の薬物の使用を正当化しているわけではない。薬物依存がなぜやめられないか、という問題に対する一つの回答を与えているのである。