戦争における「人殺し」の心理学 (デーヴ グロスマン (著), Dave Grossman (原著), 安原 和見 (翻訳)、2004年((ちくま学芸文庫)– 2004年)は優れた情報の宝庫である。
彼はその中でコンバットハイ、すなわち「戦争中毒」という状態を紹介する。銃撃戦の際に、体内に大量のアドレナリン(という表現が、このような文脈では非常に多いが、正しくはドーパミンということになろう)が放出され、いわゆる戦争酔いになるためだ、とある。しかしこれは極めて危険な状態でもあるという。なぜなら次の一発の為なら破れかぶれで何でもするようになるからだという。ターゲットを倒した時に、快感を覚える人は少なくないという。ハンターや弓矢の射手がそのような体験をする。中、長距離で殺人に成功した場合には特にそうであるという。
戦闘中に他人を殺めたことで得られた快感を人はあまりに口にしないという。それをしただけでたちまちとてつもないバッシングに遭うからだ。しかしベトナム戦争でそれを体験し、すぐに戦場に舞い戻りたいと思っていた兵士が存在するという。彼らは、「究極のでかい獲物のハンティング」と呼ぶそうだ。
私は時々思うのだが、狩猟とはきわめて矛盾に満ちた行為である。射撃をスポーツを割り切り、空中に投げ上げられた標的を打ち落とするのであればまだいい。しかし基本は動物を射止めるのがハンティングである。その名手が反社会性や残虐性を備えているというわけではない。ゴーグルや耳あてを外せば善良なお姉さんやオジさんだったりする。しかしその世界で生計を立てたり、それに熱中したりする人の中には、必ずやこの種の快感を体験する人がいるはずだ。そしてそれは必然的にそうでなければならない。なぜなら狩猟は私たち祖先が、人類の歴史の99.9パーセントにおいてそれを首尾よく行うことにより生きながらえてきたからだ。よき狩猟者であることは適者生存の原則に合致し、私たちのDNAに組み込まれていることになる。しかしそれは同時に殺戮行為であり、獲物に著しい苦痛や恐怖を味あわせるきわめて残虐な行為なのである・・・・・。
私は別稿で、快感を与える行為は倫理的に正当化される傾向にある、という趣旨のことを書いたが、このコンバットハイは、その例外と考えざるを得ない。というのもコンバットハイはしばしば強烈な罪悪感を自己嫌悪を引き起こすことがあるからだ。それもそうだろう。非人道的な行為を犯すことで快感を得るような自分を許容できない人がいてもおかしくない。