2016年4月5日火曜日

関係論的転回

ウーン、関係論的転回ですか。あまりそう意識したとか、この瞬間に変わったということはなくて、自然とそうなっていたというか。私にとっての関係論というのは、とにかく臨床とは、生きていて感情や感覚を備え、それまでの人生経験により経験値を持った人間同士が触れ合うという現象だ、という当たり前のところから出発しているという感覚があります。私は精神分析を極める、人を治療することはこんなことだ、というその道を突き詰める、という大きな気負いがあったことは事実です。アメリカに渡ったことの一つの理由はそれだったわけです。そこには分析的なメソッドらしいものがあり、トレーニングシステムがあった。まさにそれを歩めばその道を究められる、という幻想を与えてくれたわけです。だからその意味では精神分析に感謝しているというところがあります。でもおそらく私はすごくナイーブ、というのは英語的な意味で、つまり無知だったということだと思うのですが、こんなはずじゃない、というのは分析を学び始めた時からとたんに起きてきたのです。そのたびに分析の道はいかに遠いか、と思いました。
まだ分析を知り始めて2年くらいのことです。日本で精神科医としてのトレーニングを受けていました。その時、ある先輩の提示したケースで、患者さんがセッションに遅れて来た時に、それを抵抗と見なすか、という話になったんですね。その頃○○先生という先輩が、分析研で指導してくださった。彼は前回のセッションの終わり方を考えましょう。きっと次の回になぜ患者さんが遅れてきたのかのヒントがあるでしょう、などとおっしゃる。私はその時の印象を覚えています。「精神分析って、なんてすごいんだろう!」でも同時に「本当だろうか?」そこで先輩は前回のセッションの終わりの部分を引っ張り出してきたのですが、それがビミョーなんです。患者さんはその終わり方に抵抗を覚えたのかどうか、どちらとも取れる。いろいろ悩んだ挙句、私はこんなことを思いました。「分析ではこういう時、前回の終わり方とか、転移関係とかと結び付けて理解するという方針を貫くんだ。それが分析というメソッドなんだ。」私はこのことを確かめようと、何人かの慶応の分析セミナーの先生方に聞いてみました。その頃私が最も鋭くて見通していらっしゃると思っていたM川先生に尋ねると「ケースバイケースじゃないの。いつも転移と関係しているとは限らないし。そこは自分で判断するでしょ」。私は「エーッ」となりました。そして「どうしたらそれがわかるんでしょう?」と尋ねると、「それが分析的な臨床経験というものですよ。」という答えでした。私はではその分析の経験をますます極めなくてはと一方では思い、他方では「そんなに人の心を読めるようになるものだろうか?」という疑いも生じました。当時ははるかに前者が強かったので、アメリカにわたって本格的なトレーニングを積みたいと思ったのです。

それからの話は長くなりますが、結局私が至ったのは、よほどのことがない限り、人の心は読めないし、読めないどうしが交流し、相手の心で、自分の心で何が起きているのかを少しずつ分かっていくのが分析だ、ということに落ち着いています。現代的な言い方だと主観どうしの関わりという関係論的な枠組みということになります。なんだかこれが答えになっているかわかりませんが。