2016年4月3日日曜日

射幸心の不思議 ② ③


ただ私はこの説がどうもいまひとつぴんと来ない。たとえばハシビロコウを考える。沼地で一日中ほとんど微動だにせず、ごくまれに呼吸をしに水面を訪れるハイギョを狙っている、あの鳥だ。もしギャンブル好きのハシビロコウがいたら、めったにハイギョが現れない沼地を好んで、そのうち死んでしまい、子孫を残せないということにならないか? つまり射幸心の遺伝子は環境に適応的であるというロジック、どうも納得できないのだ。まあいい。ハシビロコウのことを少し書きたかっただけだ。


問題のハシビロコウ
射幸心とマゾヒズム
もう一度話を戻そう。興味深いことに、ギャンブル依存の人と正常な人で、大当たりをした人の報酬系の興奮に差はないという。問題は負けた場合、あるいはニアミスの場合だ。彼らはこのような際に報酬系が興奮する。つまりアツくなり、はっきりいって快感を覚えているのだ。大当たりよりも、ニアミスのほうが、なぜ彼らの報酬系は興奮するのか?
考えてみればこのような現象は日常的に出会う。「101回目のプロポーズ」というドラマがあったが、主人公は実は断られることに快感を覚えていたのではないか?これはまた恋愛妄想に近い心理をも説明しないか?つまり断られ、拒絶されればされるほど燃え上がる人々のことである。あるいはもう少し広げれば、マゾキズムの問題とも関係しているのではないか?

この問題は人間の行動も、それを理解しようとする心理学をも一気に複雑かつ不可解にする可能性がある。私たちは通常は人間を功利主義的な存在と考える。より大きな快を求める傾向にあると考えるのだ。そして大抵はそれにしたがって生きている。ところがふとしたことから喪失、拒絶、失敗にはまってしまうことがある。多くの場合、本人はそれに気がつかない。どうして失敗することが快感なのか、どうしてそれをいつの間にか追い求めてしまうのかがわからない。でも無意識はそれを追求するのである。




スリルか?
ギャンブルの際にひとつ注目すべき点がある。それは彼らが「遊ぶ」という感覚、楽しむという感覚なのだ。単純に考えた場合、人はお金を求めてギャンブルをする。しかし明らかに負けがこんでいても、人は「遊んだ」感覚を覚える。負ける瞬間に快感があるのならば、負けることを予想することもまた快感ということになる。他方ではかって快感を覚えるのは当然であり、それを予想することも快感だ。ということはいずれの結果にせよ、報酬系は刺激されているわけであり、これが楽しくないわけがない。かくして人はギャンブルに夢中になるわけである。買っても負けても。公営競技を運営する側も、これほどうまい話はない。

しかし負けるスリルを味わう、自分をいじめたいという心性が働いているとしても、ネズミや鳥はどうなのか? ネズミもまた「また負けてやるぞ~、フフフ」などと言いながらレバーを押しているのだろうか? それはないだろう。ここには一種の認知のゆがみが同時に関与しているのではないだろうか。5億円が当たりの宝くじでも、なんとなく勝てる気がする。自分が不思議な力を持っていて、運を引き寄せることが出来るような気がする。決め手はやはりニアミスだ。ニアミスの宝くじに、つまり数字がひとつだけ違っているためにただの紙くずであるはずの外れ券に、人は狂喜するという。「運は向いてきた、今度こそやってやるぞ」、と勘違いしてしまうのではないか。でも鳥もそんなこと考えているかなあ。