2016年3月3日木曜日

So called SP (last) 報酬系 21


Follow-up period

After these special sessions ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ major problem.

Discussions

In this paper, I presented ideas of SP and how it manifests itself as well as how it can be dealt with in clinical settings. One of the difficulties that I found in putting materials together in this paper is relative lack of bibliographies that deal with these specific topics. Although dissociation and dissociative disorders are frequently discussed in theoretical papers and clinical papers, aggressive and destructive nature of some of alters or parts of personalities discussed in this paper seems to be difficult to grasp and clinically handle, which result in paucity of academic papers. I hope this paper makes some contributions to those who suffer from lack of knowledge and understanding about these specific aspects of dissociative disorders.


報酬系 21

つまりこんなことを考えている。報酬系の直接の刺激に向かう時、それはたとえばある合目的的な行動をしているのと同じ状態を考えればいいのだ。そこにはある種の報酬の濃度勾配のようなものが措定されるべきである。たとえば私が冷蔵庫に水の入ったペットボトルを取りに行くとしよう。私が今座っているデスクからほんの数メートル離れたところにある冷蔵庫に行くには、私は椅子からヨッコラしょ、と立ち上がらなくてはならない。付けていたヘッドフォンも外さなければならない。ちょっとした労働である。私はどうしてそんな行動を起こすことが出来るのだろうか?何が私を駆動するのだろう?しかもこの場合、私は冷蔵庫のペットボトルの水を飲むことの快感をあてにしているわけではない。窓際の観葉植物に少し水をやろうとしていたのだ(都合のいい後付けである。)それは、私はその一連の行動を起こすことを決めたからである。それを完遂するという目標に向かっていただけなのだ。
実は私たちの行動は、こんなニュアンスのものが圧倒的な割合を占めると言っていいだろう。仕事に向かうのも、トイレに立つのも、ベッドに向かうのも、散歩をするのも、皆同じだ。圧倒的な快を目指すのでも、苦痛を回避するのでもない。それを遂行することを決めたから、ということになる。それに快や苦痛が伴うとしても、たいていはいくらかの快を得て、不安を回避するという程度である。そしてその快はといえば、「自分が起こそうと決めた行動を遂行することの達成感」としか言いようのないもの、それも微々たるものである。ペットボトルを取りに冷蔵庫に向かうことの達成感は、お話にならない程度の達成ではあるが、それでも大事な生活の一コマである。私たちの日常生活とはこんなものにより成り立っているのだ。
しかしたかがペットボトルを取に行く、という行動だからといってそれがかなり強固な動因付けを伴っていることも確かである。冷蔵庫が開かなかったら、ペットボトルがからだったら、観葉植物がすでに枯れていたら・・・・。私たちはかなり消耗し、焦るに違いないのだ。「決めたことを遂行する」は、それを通して自律性を確認するという意味もある。考えてみればパンクセップの seeking (探索)システムだって、快に行き当たらずにただ seeking している時は、それ自身が大きな動機付けを伴っているはずだ。
ということで私は何が言いたいのか。ある行動を遂行するときは、ある種のメーターのようなものが心の中に成立しており、自分が達成に向かって少しずつ歩を進めているという感覚を得て、それ自身が非常に緩い快感を伴っていると考えるべきである。これもまだ濃度勾配のようなものだろう。だから冷蔵庫に向かう時はまっすぐに最短距離を進むはずであり、部屋を一周してから、などということは起きない。シラスが目指す河口の周りを一周散歩しよう、などとは考えないのと同じなのである。