Figure 2. shows a state where two IWAs occur and aggressor part
as well as part of the victimized child are introjected to the child’s brain, if not
his/her “mind”.
Figure 3 |
Figure 3. shows a state where the third, hypothetical protective part is also drawn into the figure 2.
報酬系と心(13)
少し書き足した。
<報酬系のランドスケープ>
<報酬系のランドスケープ>
私の横でカミさんが、「アーおいしい」、と飲む淹れたてのコーヒー。感想を聞かれた私は、「うん、コーヒーの味がするね。」(実は味がわかっていないのである。) ここに明らかなことは二つある。一つは彼女の報酬系は、私のそれより強く反応しているということだ。そしてもう一つは、はるかに複雑だということである。彼女が壮大なパノラマ映像を見ているような感覚を味覚のレベルで味わっている時、私は原色のレゴブロックで作られた景色を見ているにすぎない。あるいは8Kテレビの画像と、ブラウン管の白黒テレビの画像の違いか。
私が報酬系のランドスケープ(景色)という考えを持つ場合には、報酬系がおそらくさまざまな感覚入力の総決算として一定の反応をはじき出しているという様を想定している。たとえば味覚を取り上げよう。コーヒーの成分は、微量なものを含めれば、おそらく何百もの成分が含まれていることだろう。(この数字はテキトーである。少し調べても出てこなかった。)人の大脳はそれを味覚と嗅覚として感じ取り、そこに様々な成分を読み取る。そしてそこで大事なのは、個々の成分の知覚だけでなく、その組み合わせからくる全体としての感覚であり、それが私がランドスケープ(景色)という形で表現したいものである。「おいしい」はここの知覚の総和からは算出されないようなある種の統一性、全体性を持っている。この統一性、全体性がなぜ大事かといえば、報酬系は、一つの行動へと集約されなくてはならないからだ。すなわちイエスかノーか。飲むか飲まないか。店でそれをレジまで持っていくか行かないか。それをもって幸せな気分になるかならないか。
ちなみにsalience landscape [セイリエンス・ランドスケープ]という概念がある。たとえば扁桃核は物事についてのこれを提供するが、それはどれがおいしそう、どれが嫌い、という言わば価値づけを付与した景色を提供してくれる。私の報酬系は、味覚に関しては荒れ地か砂漠のような景色しか提供してくれないが、グルメならこの風味が素晴らしい、あの舌触りがたまらない、と料理の一つ一つにうんちくを傾ける。報酬系を刺激するのは、このランドスケープがいかに込み入っているかということにも影響を受けるらしい。たとえば映画を見ても、込み入ったプロットにより作られた映画は、単純なストーリーより感動を与えるとか。ただしこの込み入り方は、それを受け取る側の「余裕」にも関係してくる。要するに複雑な情報を処理して報酬系を刺激するような心的エネルギーのことだ。何か漠然としたいい方だが、例えばうつ状態になると、味がわからなくなるし、複雑なものは単に「煩い」としか感じられなくなってしまうだろう。