今日も引用箇所が多いなあ。
Ferenczi’s notion of
Identification with the aggressor
Perhaps the notion most relevant that
we can draw on in discussing the mechanism of SP’s formation is Ferenczi’s “Identification
with the aggressor” this notion has been studied by Jay Frankel and others (Jay Frankel
(2002) Exploring Ferenczi's Concept of Identification with the Aggressor: It’s
Role in Trauma, Everyday Life, and the Therapeutic Relationship. Psychoanalytic
Dialogues, 12:101-139.)
This notion of "identification
with the aggressor” (to be abbreviated to “IWA” hereafter) is generally
considered to be introduced by Anna Freud (1936)(L&P, p.207) who included
IWA as one of defense mechanisms.” faced with an external threat
(typically represented by a criticism emanating from an authority), the subject
identifies himself with his aggressor. He may do so either by appropriating
the aggression itself, or else by physical or moral emulation of the
aggressor, or again by adopting particular symbols of power by which the
aggressor is designated.”(L&P p.207)
The most characteristic of the notion
of IWA represented by Anna Freud is the reversal of the role. Anna Freud
thought that the child goes through an initial stage in which the whole
aggressive relationship is reversed: the aggressor is introjected while the
person attacked, criticized or guilty is projected outwards. It is only
afterwards that the aggressiveness turned inwards.
The same tone of view was presented by René
Spitz (No and Yes (1957)) who asserts that IWA is the predominant
mechanism in the acquisition of the capacity to say no.
Spitz, R.A. (1957). No
and yes : on the genesis of human communication. New York :
International Universities Press.
These author stressed the importance of
the internalization of aggression, first directed toward the children, to “use”
it, so to speak, as a coping strategy in order to deal with the original
aggression. It is regarded as a healthy mechanism that a child needs to acquire
in order to further develop their personal integrity vis a vis harsh external world.
Recently,
there are views that assert the necessity that we turn our attention to
Ferenczi’s original notion of IWA, which stresses rather pathological and
traumatic aspect of a situation where the IWA is mobilized.
報酬系と心(7)
いやなことは考えない、というテーマで書いているうちに、なんだかわけがわからなくなってきた。この辺で少しまとめてみたい。
最初はフロイトの抑圧理論を軽視していたと書いた。なぜかといえば、「いやなことを考えまいとしているうちに無意識に追いやられてしまう」という理屈が現実と違っている気がしたからだ。たとえば誰かに聴衆の面前で恥をかかされた。忘れたい。でもその記憶は「無意識」になるだろうか?
もちろんフロイトの理屈がまったく検討はずれではない。私が臨床から知ることは、解離の機制には同様の現象を引き起こす可能性があるということだ。トラウマ性の記憶を思い出せないことはフロイトの「抑圧」に近い現象といえる。ただしここで起きている機制は「抑圧」ではなくて「解離」なわけだが(両者の区別はヤヤこしいのでここでは省略。)でも普通なら、「いやなことはかえって忘れられない」と言えるのではないか。いやなことなら余計考えてしまって、記憶を強化するのではないか?日常体験から考えると、「いやなことは忘れる場合もあれば、かえって記憶に残る場合もある」 のではないか?いわゆるエビンハウスの効果、である。それについて思い出さなければ忘れていく、という単純な原則だ。考える価値のないことは思い出されずに、そのまま忘却されていく。ただし自分にとって情緒的な意味のある事柄についてはその逆のことが起きるはずである。それは忘れようにも忘れられないことになるだろう。すると抑圧って本当にあるのか?という話にすらなる。私がフロイトの抑圧を軽視していたのはそういう意味があったのだ。
この点に関する心理学の研究がいわゆる「TNTテスト」であることについてはすでに示した。この結果はビミョーである。「考えまい」とすることは順調に記憶が薄れる場合と強化される場合とあるらしい。結局「いやなことは忘れる場合もあれば、かえって記憶に残る場合もある」は依然として正しい。
ここでひとつ確かなことを共有しておきたい。おそらく精神分析理論の中で、「抑圧 repression」よりもその存在が確かなのが「抑制 suppression」である。これは心がある事柄を意識野から追い出すことで、これはある程度は成功することを私たちは日常的に知っている。上司に怒られたことを思い出したくないので、ケータイゲームに没頭する。酒を飲む、など。要するに他のことに意識を向ければいいのである。あるいは「寝逃げ」という手もあるが、本質的には同じだ。ただ抑制が長続きしない可能性があるのも当然である。いやなことはいずれは処理すべきこととしてよみがえってくる、あるいは無理やり思い出させられることが多い。このように抑制は一時しのぎなのだ。すでに述べた「TNT」でテストするのも、実は抑制のことだと思う。被検者はあることを考えないように、といわれることでどのようなことを試みるだろうか?おそらく別のことを変わりに考えようとする。「空飛ぶ鯨のことを・・・・・・考えないでください」といわれた人は、たった思い浮かべた、鯨が空を飛んでいるイメージを打ち消そうと、別のことを代わりに考えるかもしれない。それは一時的にはうまく行く。しかしどの程度続くかはわからない。これまたビミョーな問題だ。
ここで私なりの結論を言ってしまおう。かなりスペキュレーションが混じっているが。
1.まず想起が極めて不快な内容の場合。これはトラウマ的な記憶と言っていいだろう。これは一生のこる場合と、部分的に解離される場合がある。その体験中に心が壊れかけてしまった(失調した)際は、脳はその記憶を、いわば別の箱の中にとっておく。これが解離の働きだ。するとその箱へのアクセスが通常の想起と異なるために、半分忘れたようになるのだ。しかしそれはフラッシュバックという形で半ば強制的に、突然よみがえってくる可能性もある。
2.想起が中等度に不快な内容の場合。これは意識がそれを心においたときにそれを払いのける力がある程度有効に働く。例の「抑制」だ。中程度の不快なので、よみがえる力もあまり強くない。すると一部は「忘れ」られるだろう。しかしその中にはその不快ゆえに、心に残り、より思い出されるものもある。するとかえって忘れられないことになる。
3.想起しても何も心に不快とならない内容。不快だけでなく驚きも新奇さもないとしよう。これは確実に忘却されていく。さてこれを「無意識化する」といえるかどうかというのは微妙だ。忘れることと無意識化されることは明らかに異なるからだ。