2016年2月14日日曜日

報酬系と心(8)


以上で私の考えをまとめたことになるが、ここで重要なコメントが必要になる。それは「想起」とひとことで済ましていたことが、実はきわめて複雑な事情をはらんでいるということだ。記憶には陳述、非陳述、ないしは明示的 explicit、黙示的 implicit なものがある。明示的、黙示的、で行こう。「黙示録」、みたいで語感がヘンだけどね。前者は海馬系、後者は扁桃体系、とわかりやすく言おう。本当はもっといろいろなところが絡んでいるのだが。通常は、出来事の記憶はこの両者で組み合わされている。いつどこで映画を見た、感動した、という風に。前者は明示的、後者は黙示的。これはわかりやすい。いつどこで自転車の練習をし、乗れるようになった、でもいい。
 ところがトラウマ的な出来事だと事情が少し複雑になる。たとえば交通事故を目撃し、ショックだったという場合。いつどこで何を見た、は時空間的な情報を伴った明示的な部分。いわゆるエピソード記憶だね。ショックだったというのは感情の伴った黙示的な部分。この両者のうち、少なくとも前者がアクセス不能になっているものが抑圧されたものだ。少なくとも定義上はそうなる。

するといわゆる抑圧されたものは、2種に分かれる。
1.明示的な部分が消え(ないしはアクセス不能になり)、黙示的なものが残っている場合。
2.明示的なものも、黙示的なものも、通常はアクセス不能な場合。

 さて2の場合は、どっちもなくなってしまっているではないか、ということになる。心の隅々まで探しても、どこにもない???それじゃまったく忘却してしまったのと同じではないか?そこで解離の概念がどうしても必要になってくる。心のどこかに別の箱があり、そこに入っているという考え。それは無意識か?おそらくフロイト的な意味でのそれではない。フロイトは解離を認めなかったからだ。そこでいろいろな言い方が出てくる。下意識(ジャネ)。非意識(non-consciousness、心理や脳科学で、フロイト的な「無意識」のニュアンスを避けるために用いられる言葉)、新無意識(new unconsciousness ← 本のタイトルにもなっているぞ。R.R.Hassin et al (eds.) (2006) New Unconscious. Oxford University Press)。