2016年1月6日水曜日

解釈を超えて(4)

自己承認と発見が同時に起きる

1990年から1995年は私が精神分析を受けていた時代だが、一つ印象に残っていることがある。私の分析家ドクターKは私に一つのメッセージを繰り返し送っていたが、私がなかなか受け入れる事が出来ないことだった。今でもひょっとすると受け入れていない。それは「私が私でいい」ということだった。私が自分の人生の中で起きたことを話すと、彼は「どうしてそう考えるのだろう?」などとドクターKは首をかしげることがあった。(といっても私はカウチに寝ていたので、彼が実際に首をかしげたのを見たことはなかったが。)私が私のままでいい。そういわれてもやすやすとは受け入れられない。私はまだ私でないのだ。これからなるのだ。できることならば…。このことは同時にもう一つの重要な点を示していた。「私は私でいい、と思わせてくれるような人に、これまで出会うことがなかった?」私には小此木先生も高橋哲郎先生もいた。「いいよ」と言ってくれているような気もした。でも私は彼らに「よき息子、良き生徒」としてしか接していなかったのだから、「いいよ」と言われるのも想定内なのだ。いわば条件付きのものなのである。ドクターKの場合は、最初から「いいよ」であったと思うし、私はよき息子であり続ける必要があった。
 おそらくドクターKは私がやろうとしていること、してしまったことを「いいよ」とは必ずしも言っていなかった。しかし私が自己承認を行っていなかったことが、結局私の行動や考え方に表れてしまっているということはうかがえた。自己承認が、「自分は自分でいい」という発見とつながっていた? 精神分析により最終的に行き着くのは、自分が自分であっていいということか? というより自分が自分であっていいとどうして思えないのか、という問題がここに絡んでいる。「あの事があったから?」「あんなことをしでかしたから?」「自分がこんなだから?」「あれもできないしこれもできないからか?」それを一つ洗い出していくことも作業の一つかもしれない。 
今私が書いている自己承認の問題は、実はある種普遍的な問題でもある。どれほど多くのクライエントが、自分を受け入れられず、「こんな私ではだめだ」「生きていく価値がない」「消えたほうがましだ」と訴えることだろう?「自分が自分でいい」とはなんと受け入れがたいことだろうか? そして最終的に得られる(であろう)自己承認は発見なのか?解釈により導かれることなのだろうか?
自己承認。それはフロイトがフリースとの間で、ユングやフェレンチとの間で求め続け、部分的にそれを得られることで発見の糧にしたものではなかったのだろうか?
と、ここで読者は絶対に思うはずだ。精神分析家だったらもっと思うかもしれない。「その役目は親が十分にしてくれたのではないか?」

もちろんその問いは意味があるし、当たり前すぎるほどの疑問でもある。常識的に考えたら答えはこうだ。「もし良好な母子関係が存在し、健全な愛着が存在したら、当然しっかりとした自己承認や自己肯定感が成立するはずではないか?」もうこのことは常識の部類に属するといってもいいのではないか? 
 私に関していえば、もちろん生育環境を自分自身で客観的に評価することはできないまでも、十分なものは提供されてきた気がする。でもどうして「私は私でいい」をなかなか受け入れられないのだろうか? 一つ言えるのは、自己肯定感はおそらくその基本部分はかなり発達早期に備わるべきものではあるが、また同時に常に刷新され、上書きされなくてはならないものなのである。私たちは毎日平穏無事に生きているとは限らない。常に様々なストレスを体験し、自分の能力に限界を感じる。あるいは自分の能力(学力、仕事の能力、知的な能力)に物足りない場合には、より高いレベルの環境に身を置くことで、結局は自分の能力に限界を感じることにもなろう。「自分は自分でいいのか?」はこうして常にチャレンジされ続けることにもなる。このように考えると自己承認は様々なファクターの関数であることがわかる。養育環境、その後のトラウマ状況や喪失体験、野心や向上心の度合、志の高さ。ある意味では「自分は自分でいい」は決して受け入れてはいけないものと感じられてもおかしくない。「自分に満足したら向上が止まる」と考える人がいてもいい。しかし自己否定の感情は、向上心や探求心そのものを枯渇させてしまう可能性もあるのだ。