さて私のこの話は、ナーんだ、フロイトは結局は自己愛人間だったんだ、という風にはならないのである。それはこのフリースの手紙が同時に含んでいる、フロイトの激しい真実への探求心の証でもあるということである。フロイトはこの手紙でフリースに向けて言っている。「あなたに力をもらっている」、と。そしてフロイトが書き送ったのは、「科学的心理学草稿」の、つまり本物の草稿だったのである。
私たち理科系人間は、発想がわいた場合にいきなり論文にするわけにはいかない。論文にする何段階も前の、「ひよこ」の段階で、人に話したり、日記に書き付けたりする。現代ならさしずめブログにしたりツイートしたりする。研究者によっては一番楽しい段階はそれであったりする。データを取ったり文献に当たったりして論文にするのは、どちらかといえば苦しい段階なのだ。そしてその発想部分をフロイトはフリースに向けた。だからこの書簡集は不思議なのである。一方ではフリースに対する一種の求愛や感謝や理想化の文面が並び、それからやおら彼の理論が披瀝される。(絶対フリースは内容を理解していなかったと思う。なぜならこの「草稿」は後世の誰が読んでも、その全体を首尾一貫したものとして理解した人はおそらくまれだったと思えるからだ。もちろんもちろん私も若い頃格闘したが、駄目だった。断片的にしか分からなかった。)人によっては、この理論の披瀝の部分は、フロイトがお父さん(フリース)に自慢したかったからだ、だから自己愛的な活動だったのだ、と考えるかもしれないが、私は必ずしもそうは思わない。それはむしろ自己愛的なエネルギーを真実への探求に向け換えたものなのである。
私たちは、私たちの真実への追及、フロムが言った「意味への追求」(え?彼はそんなことをいったっけ?どっかで読んだ気がする。イーカゲンだな。)を、自分を認めてほしいという欲求とは別にもっているのだ。
私はこの承認欲求と探究心の関係を実に興味深く思う。自らが承認され、自己愛が満たされることで探索への希求が生まれ、それは人によっては自分自身にも向けられるであろう。もちろんその探究心が自然科学や人文科学の中の特定の学問分野に向けられる場合もあるだろうが、自分の心、自分の生き方に向けられることもあるであろう。そして精神分析とはそのニーズに応えることになる。
ここで重要なのは、解釈の問題はこの自己探求の欲求に絡んでくるものの、基本的には本人が探求する力に頼り、それを援助することにしか力を発揮しないであろうということである。クライエントの探究心がどの方向に向かうかは分からない。分析家は手探りに沿い、一緒に考えるという役割をになう。ちょうどフロイトに対するフリースの役目のように。時には分析家の発想は取り入れられ、探索の方向は結局は共同制作のような意味合いを持つことになるであろう。