2016年1月21日木曜日

入稿一歩まえ(1)

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精神分析におけるトラウマ理論
                  
                 
はじめに

現代の精神分析において「トラウマ」が一つのキーワードとなりつつあることは、ある意味では時代の必然と言える。 それは精神分析理論の変遷という歴史的な流れの中に位置づけられよう。Freud 1890 年代の終わりに「性的誘惑説」を棄却して内的欲動論に向かい、それが精神分析理論を生んだと一般に理解されている。Freud はその後の理論の発展(Freud, 1926)で、欲動論の一部を大幅に修正したが、それにより彼は新たにトラウマの問題に関心を向けたとみなすこともできる(岡野、1995)。しかし Freud は基本的にはリビドー論や欲動論的な視点を終生堅持し、いわゆる「葛藤モデル」の代表として位置付けられ、それは伝統的な精神分析の主要なモデルであり続けた。後に様々な学派により、養育上の欠損やトラウマを病因として重んじる、いわゆる「欠損モデル」が提唱されたが、Freud の立場はそれとは理念上一線を画していたと言える。そのためか1970 年代以降になり、PTSD や解離のトラウマに基づく病理が盛んに論じられ始めた時、主として関係精神分析を代表とする新しい精神分析の流れがトラウマの問題をいち早く取り上げたが、伝統的な精神分析はその対応に出遅れていたという感があった。しかし最近ではトラウマ理論の影響は精神分析の世界に広く浸透し、クライン派によるトラウマ理論も提出されるに至っている(Garland, 1998)。

精神分析へのトラウマ理論の取入れ

精神医学全体を眺めれば、1980年のDSM-III PTSD および解離性障害が診断項目として掲げられて以来、心的なトラウマの精神への影響に対する関心は急速に高まっている。個々の精神分析家もその影響を受け、その理論を修正発展させることはある意味では自然のことであろう。その例としてOtto Kernberg をあげることが出来る。Kernberg は米国で1970年、80年代に境界パーソナリティ障害についての理論を展開した(1984)。その彼が同障害の病因として論じていたのが、クライン派の考えに沿った患者の生まれつきの羨望や攻撃性であった。しかしその後1995年には、次のように述べてかつて提唱した理論の一部修正を行っている。
同時に私は生まれつきの攻撃性についても曖昧ではなくなってきている。問題は生まれつきの、強烈な攻撃的な情動状態へのなりやすさであり、それを複雑にしているのが、攻撃的で回避をさそう情動や、組織化された攻撃性を引き起こすようなトラウマ的な体験なのだ。私はよりトラウマに注意を向けるようになったが、それは身体的虐待や性的虐待や、身体的虐待を目撃することが重症のパーソナリティ障害の発達にとって有する重要性についての最近の発見の影響を受けているからだ。つまり私の中では考え方のシフトが起きたのだ。」(Kernberg, O.,1995, p.326
この Kernberg に見られたような路線変更はおそらくほかの学派においても程度の差こそあれ見られた可能性がある。しかしトラウマ概念の導入の仕方やその治療的な扱いは、学派によりさまざまに異なるのも事実である。たとえば前掲書に代表されるクライン派の捉え方(Garland, 1998)によれば、トラウマとは Freud のいう刺激障壁が破られることにより生じ、トラウマ的な出来事は、内的な恐怖や空想の中で最悪なものを確証させることであると理解される。そしてその治療技法としてはやはり転移解釈が主たる技法であるという主張がなされる。それと比較して、間主観性理論の立場に立つ Robert Stolorow のトラウマ論(Stolorow, R. 2007)は、トラウマをより関係論的でコンテクスト的にとらえる。そしてトラウマは、愛する人がいつ何時死ぬかもしれないという現実を自覚することにつながり、その孤独を理解してくれるのは、同様のトラウマを体験した人でなくてはならないとさえ主張する。
 このように精神分析においても最近はトラウマへの注目がみられるが、むしろその流れは精神分析の歴史の中に既に存在しつつ、ある意味では傍流として扱われていたという事情がある。その源流を Freud の初期の理論に位置付けてみよう。

フロイトの「誘惑仮説」の見直し

Freud は精神分析理論を構築する前の段階では、トラウマの問題に深く関心を寄せていた。1893年の『ヒステリー研究』に関連する3篇の段階で、Freud はトラウマを以下のように定義している。
神経系にとって、連想を用いた思考作業によっても運動性の反応によっても除去することが困難な印象はすべて、心的外傷になるのである。(全集1.p307
これは脳科学的な視点を取り込んだ現代的な理解と符合する、先駆的といえるものだった。
Freud は当初はヒステリーの原因として、上述のような心的トラウマの中でも特に幼少時期の性的トラウマを重んじていた。Freud 1896年には、扱ったヒステリーの18例すべてに性的なトラウマが聴取されたという報告を行った(Freud, 1896)。これが後に「誘惑仮説」と呼ばれるようになったものであるが、その時ウィーンの医学界の反応は非常に冷淡なものであったとされる。さらに同年126日にフリースにあてた書簡では、Freud 虐待者はすべて父親であったという見解にまで至ったとされる(Makari, 1998 。しかしその翌年の921日に、突然同じくフリースあての書簡(Freud, 1986)で、この「仮説」が棄却されたのであった。
このFreud のやや唐突な翻意に関しては従来さまざまに議論されてきた。しかし後に新たな資料が公開され、近年はそれに基づき、この「誘惑仮説」が棄却された経緯を再検討するという動きがみられる。その中で1980年代に発表された Jeffrey Masson の「真実への侵襲」(Masson, 1984 は、それが Freud 自身が学問的ないしは社会的な孤立を恐れたために真実をねじ曲げたためであるという説を提示し、大いに議論を巻き起こした。しかし Masson の著作には学術的な誤謬も多く、またその扇動的な内容は多くの批判にさらされた。最近ではこのテーマに対するより冷静かつ公平な見解がみられる((Makari, 1998, Lothane, 2001, Reisner,2003)
それらの研究が一様に強調するのは、Freud の「翻意」は自らの見解を180度切り替えたというわけではなく、むしろ「すべてのヒステリー患者が現実に性的なトラウマを負っていたというわけではない」という、より穏当な見解への方向転換を意味していたということである。そこには Freud が当時の疫学的研究の結果を受けて、父親がヒステリーすべての原因であるという見解を保持できなかったという事情もあったとされる(Makari, 1998) 。むしろ実際には Freud は「誘惑説を決して捨て切れなかった」という見解(Lothane, 2001)に向かいつつある。
現代的な観点から検証した場合、Freud の「翻意」には様々な理由があったにせよ、以下のような理論的な推移があったと考えるのが妥当のようである。それはトラウマとなるための必要条件は幼少時において性器への過度の刺激が生じたことであるが、それは直接の性的な暴行だけではなく、子供がファンタジーや自慰行為を行い、それを抑圧することでも生じるという発想を得たことであったMakari, 1998)。従って Freud は幼少時に「性的誘惑」は決して起きず、すべてがファンタジーであったと結論付ける必然性もまたなかったのである。
 むしろ Freud のトラウマ理論に問題だったと考えられるのは、性的な暴行を受けることにより偶発的に生じる可能性のある性的興奮と、自慰などによる性器の刺激が全く心的な意味合いを異にするという点、そして性的な意味合いを持たない虐待も当然存在していたという点に十分な注意を向けなかったことである。言うまでもないことであるが、幼少時に生じる加害行為には性的な意味合いを欠いた身体的な暴力も、精神的な虐待もネグレクトも存在する。それは幼児を脅威におとしいれ、その主体性を蹂躙し、傷つける行為である。Freud がそのようなトラウマの基本的な性質に重きをおかず、性的な興奮という観点でしか考えていなかったことが問題であるといえよう。
ちなみに本稿でも用いている「誘惑仮説」という表現の中の「誘惑」という言葉が持つ問題についても指摘されている(Makari, 1998 。「誘惑」という言葉には誘惑する側とされる側が想定し、子供が性的虐待に間接的に加担したというニュアンスを与える可能性があるからである。
上述のように Freud は幼児に対する性的な虐待の存在の事実を全面的に否定することはなかったが、トラウマに関連した解離という現象やその概念については、きわめて否定的であったといわざるを得ない。
 Freud は「ヒステリー研究」以前の 1892年の時点では、Breuer の解離に関する見解 (いわゆる「類催眠状態」) に全面的に同調して次の様に述べる。
「したがって、我々はその限りにおいて既に、ヒステリーの素因の特徴づけをもくろむ次のような仮定を取り上げることなくして、ヒステリー諸現象の成立の条件を論ずることは不可能であつた。その仮定とは、ヒステリーにおいては一時的な意識内容の解離が容易に生じるということと、連想によって結びついていない個々の表象複合がいきなりばらばらにされてしまうという事態が容易に生じるということである。よって我々はヒステリーの素因を、そのような状況が(内的な原因によって)ひとりでに発生するか、あるいは、外部からの諸影響によって容易に誘発されるという点に求めることになるのだが、その場合に我々は、ある系列においては、この二つの要因がさまざまに程度を変えて関与しているものと見なしている。」
ここには解離が生じる原因として、当人の持つ素因とともにトラウマ因を重視したバランスの取れた見解が示されている。しかしすでに「ヒステリー研究」(1895)において、Freud は類催眠状態の概念は本来自らのものではないとし、Breuer の同概念の、トラウマや退屈さのために不快な体験がスプリットされるという考え方には、力動性という概念が欠如していることを、以下のように批判したのである。
奇妙なことではあるが、私は自身の経験において真性の類催眠ヒステリーに遭遇したことがない。私が着手したものは、防衛ヒステリーヘと変化したのである(P365
手短に言えば、私には、類催眠ヒステリーと防衛ヒステリーはどこか根っこの所で重なり合っているのではないか、そして、その際には防衛の方が一次的なのではないか、という疑念を抑え込めないのである。しかし、これについては何もわからない。(同 P365)

フロイトはさらに Janet の解離理論についても、患者がもともと持つその人の心の弱さやスティグマに還元されるという点について批判を行っている(Freud, 1895)。近年のトラウマ理論における解離の概念の扱われ方は、本稿の後半で再び論じる。

Ferenczi の先駆性

上述の通り、Freudは精神分析理論を構築する過程でトラウマのテーマから距離を置くようになったが、他方ではSándor Ferenczi が幼児期の性的トラウマに関する関心を高めていった。しかしそのFerenczi の見解はFreud 自身によって敬遠され、彼の理論が精神分析の本流に位置づけられることはなかった。ところが近年になってこのFerencziの先駆性およびトラウマ理論の重要性が見直されつつある。2008年にはニューヨークにフェレンチセンターも立ち上がり、またわが国でも森茂起らによる翻訳や紹介により、Ferencziの業績が再考される機会が与えられているFerenczi,1994,1995
それらの研究が示すのは、Ferenczi の驚くべき先見の明であり、後のトラウマや解離に関する理論を事実上先取りしていたという事実である(Aron, Harris, 1993) Ferenczi の業績の再評価は、そのまま精神分析における外傷理論の再評価を表しているとも考えられるであろう。
Ferenczi の理論の先駆性を示す概念の一つに、「攻撃者との同一化」がある。この概念は、一般には Anna Freud1936) が提出したと理解されることが多い。彼女の「自我と防衛機制」(AFreud1936に防衛の機制一つとして記載されている同概念は、「攻撃者の衣を借りることで、その性質を帯び、それを真似することで、子供は脅かされている人から、脅かす人に変身する。(p. 113).」と説明される。しかしこれは当初 Ferenczi 考えたものとは大きく異なったことが指摘されている(Frankel, 2002)。Ferenczi がこの概念を提出した「大人と子供の言葉の混乱」(Ferenczi, 1933) を参照してみよう。

「彼らの最初の衝動はこうでしょう。拒絶、憎しみ、嫌悪、精一杯の防衛。『ちがう、違う、欲しいのはこれではない、激しすぎる、苦しい』といったたぐいのものが直後の反応でしょう。恐ろしい不安によって麻痺していなければ、です。子どもは、身体的にも道徳的にも絶望を感じ、彼らの人格は、せめて思考のなかで抵抗するにも十分な堅固さをまだ持ち合わせていないので、大人の圧倒する力と権威が彼らを沈黙させ感覚を奪ってしまいます。ところが同じ不安がある頂点にまで達すると、攻撃者の意思に服従させ、攻撃者のあらゆる欲望の動きを汲み取り、それに従わせ、自らを忘れ去って攻撃者に完全に同一化させます。同一化によって、いわば攻撃者の取り入れによって、攻撃者は外的現実としては消えてしまい、心の外部ではなく内部に位置づけられます。」(p.144-145)
 このように Ferenczi は、この概念の意味するところとして、「子供が攻撃者になり替わる」とは述べていない。彼が描いているのはむしろ、一瞬にして自動的に起きる服従なのである。
 このようにトラウマの犠牲になった子供は、むしろそれに服従し、自らの意思を攻撃者のそれに同一化する。そしてそれは犠牲者の人格形成や精神病理に重大な影響を及ぼすことになる。Ferenczi はこの機制を特に解離の機制に限定して述べたわけではないが、多重人格を示す症例の場合に、この攻撃者との同一化が、彼らが攻撃的ないしは自虐的な人格部分を形成する上での主要なメカニズムとする立場もある(岡野、2015)。