2016年1月20日水曜日

精神分析におけるトラウマ理論(仕上げ)6


トラウマ理論は「誘惑的」か?

最後に最近のトラウマ理論に対する批判的な見方についても触れておこう。Reisner は「トラウマ:誘惑的な仮説」という論文(Reisner, 2003)で、昨今のトラウマ理論への批判を展開する。彼はトラウマ理論においては、トラウマがいわば病原のように取り除かれるべきであり、他方の患者は被害者であり、特別な存在であるというナラティブが支配的になっているとする。そしてその背景には政治的な意図が見えるという。その文脈で Reisner が紹介しているYoung2001)の論文は、DSM-III の作成委員会が、戦闘兵を犠牲者として扱い、障害者年金を獲得することのできる存在として位置付けるべきとの議論があったという。そしてそのためには「戦争神経症」という診断はふさわしくなく、「トラウマを受けることによる反応」というニュアンスの診断、つまりPTSDが必要だったのである。そしてそれがこの概念の大きな成功を生んだという。
Reisner, S.: Trauma: The Seductive Hypothesis. J. Amer. Psychoanal. Assn., 51:381-414., 2003
Young, A.: Our traumatic neurosis and its brain. Science in Context 14: 661-683.,2001

ちなみに Reisner の議論の中で、PTSDの概念とFreud の現実神経症の概念との類似が示されている点は興味深い。現実神経症とは、現実の性生活から引き起こされる問題であり、自慰過多,頻回の夢精、禁欲、早漏、中絶性交のような性的満足が妨げられた場合に生ずる不安症状その他の精神症状とされる(精神分析事典、該当項目より、小此木ほか、2002年)。Freud はこれと精神神経症を分け、前者は心がそこに介在しないという意味で分析は不可能と考えていたようである。この分類によれば、外的な外傷因により引き起こされる精神疾患はFreud とってはそこに心が介在せず、心理療法として扱うに値しない問題として棄却される可能性があるということになろう。

小此木、北山他 精神分析事典、岩崎学術出版社、2002

Reisner は現在のトラウマの問題には、自己愛の問題が絡んでいるという点も指摘している。米国では、トラウマは崇高な位置を得ており、トラウマのサバイバーは権威を与えられ、尊敬のまなざしで見られる傾向にある点、トラウマの体験は、芸術家や創造者がなかなか得られないものを得ることを可能にし、トラウマストーリーにおいては、被害者は無知で純真であることが期待されている、とする。さらにトラウマの被害者は責任を逃れる事が出来、トラウマの犠牲者は一般大衆に代わって苦しみを背負っているとも論じる。そしてこのような考えの典型として、Davies, Frawley の次のような文章を引用する(1994)。「誘惑説は、患者の子供時代の現実の人々の証拠に基づくものである。それは自分の自己愛的な満足を得るために子供を利用する大人を罰するものであった。エディプス葛藤は、それに対して、子供時代の性的虐待は、子供自身の性的な願望によるファンタジーによるものだということを強調するのである。」そして中立性を守ろうとする分析家は、結果として被害者側の方に過剰に寄り添ってしまうと批判する。

Davies, J.M., & Frawley, M.G.: Treating the Adult Survivor of Childhood Sexual Abuse: A Psychoanalytic Perspective New York: Basic Books, 1994. 

 臨床に携わる人間としては、ここに一つの大きな溝があり、両方に属する人間の間には一種の対立が見られることがわかる。それは現代的な分析の立場対フロイディアンの対立。トラウマ論者対トラウマ理論に批判的な論者との対立、などである。この両者をよく見据えながら、中立性を保たなくてはならないということがよくわかる。しかしその上で言えば、世間はやはり被害者の方に冷たいこともまぎれもない事実なのである。

 最後に

現代の精神分析におけるトラウマ理論の占める位置について論じた。トラウマ理論が徐々に大きな位置を占めることには時代の要請があり、またそこには伝統的な精神分析に不足した視点を補う意味もあったと言えるだろう。しかしトラウマ理論にはそれに偏重した場合の様々な問題があることは、本稿で最後に触れたとおりである。私たち臨床家が、葛藤理論とトラウマ理論が真に臨床的な意味を持つ形でバランスを取りつつ、私たちの患者の理解に用いられることを願う。