2016年1月8日金曜日

解釈を超えて(6)

治療で現実に起きている二つのこと:出会いとネットワークの連結

最後に治療で起きていることについて二つの点を挙げてみたい。一つは出会いであり、もう一つはネットワークの連結、ということである。私たちが人生の中で先に進む事が出来る機会には大抵この二つの要素がからんでいるし、治療関係についても同じなのである。
おそらく「自分が自分でいい」という感覚は、そう感じさせてくれる治療者との間で形成される。もちろん「自分は自分でいい」はその他様々なことでも醸成されるかもしれない。事業の成功、学業の達成、新たな親密な関係の進展など。その中で人は自信を得て、自分らしさを獲得していくのであろう。しかしそれが治療環境というコントロールされた場で起きる場合には、治療者との人間的な接触と、その中でのパーソナルな体験が重要となる。
私がそれをボストン変化グループの呼び方に倣い、「出会い」と呼ぶのは、それがある種の情緒的なインパクトを備えているべきだと思うからである。「あれ、この人は違う?」「なんて人なんだ」「本当に自分をわかってくれるのではないか。」という体験。ただし出会いにはほぼ確実にそのあとの揺り戻し、失望が来るのはやむを得ない。「それほどでもなかった」「一種の錯覚だったのかもしれない。」恋愛体験が必然的にたどる道筋を考えればわかるとおり、「出会い」そのものはある種の幻想であり、錯覚である。過剰な同一化ないしは取り入れと言ってもいいかもしれない。しかし実はそれも含めての「出会い」なのである。「自分は自分でいい」はおそらく出会いの後は、「(この人の心の)中の自分は自分でいい」がしばらく続く。そのうち「(この人がいなくても)自分は自分でいい」となって行くだろう。そのためにも錯覚、脱錯覚は必要となるのである。出会いは常に二相性 biphasic なのだ。
最後に私が言いたいネットワークの連結と知れによる再編成とは、「自分が自分でいい」という感覚を得られた場合にそれに伴う世界への探索、自分の心の世界への探索が、多くの気付きをもたらすものの、その一部はすでに心の中に準備され、用意されていたものなのである。認知療法で言えば、自動思考を生み出す「スキーマ」と考えればいい。ただしスキーマや自動思考がその人にとって不適応的な影響を及ぼすのであれば、そのスキーマは一つのパターンに縛られた、それ自身が発展のしようがないものかもしれない。しかしそれが様々なものの中に同形性を見出すことにより物事の理解につながっている。「自分が今体験しているのは、かつてのあの体験だ」「自分の体験はおそらく母親が体験していたことなのだ」など。

注意すべきなのは、この種のネットワークの再編成は、ステレオタイプ化とは異なるということである。こちらは例えば「あの人も結局は自分にとっての敵だ」「あの人も結局は私をバカにしているのだ」という一種のスプリッティングの機制に基づくものである。これはネットの連結というよりは病的なネットワークの形成ということになり、世界は自分か他人か、敵か味方か、という分類に至る。しかし健全なネットワークの連結はむしろ自分も他者も同じである、敵も味方も同じ性質を共有しているという形で生じるのである。