2015年12月30日水曜日

精神分析におけるトラウマ理論(推敲2)

Ferencziの先駆性

精神分析の歴史を詳細に遡るならば、そもそもFreudの理論の変遷の中で、トラウマというテーマがきわめて錯綜した扱いを受けていることがわかる。「ヒステリー研究」(1895Studies of Hysteria, 1995、岩波全集第1巻)や「ヒステリーの病因論のために」(The Aetiology of Hysteria, 1896、岩波全集第3巻)の段階では、トラウマや解離のテーマは、Freud 自身がJ-M.CharcotJ.Breuerの影響下にあり、積極的に扱われていた。しかしすでに「ヒステリー研究」の後半部分において、FreudBreuerとの見解の違いを表明し、特にトラウマ状況により生じる「類催眠状態」の概念に同意できない旨を述べている。それに引き続き1897年秋のFerencziへの書簡で、性的外傷説は彼の中で棄却をされたという経緯は知られている。しかしFreud 自身、「制止、症状、不安」(1923)においてトラウマのテーマ(「トラウマ状況」)を再び自らに取り入れる動きを見せた。ただしそこで想定されていたトラウマは、去勢への脅しという形をとり、子供たちが現実に直面する性的、身体的なトラウマに着目したというニュアンスはなく、また依然としてリビドー論に従った精神病理の説明を行っていた。
 こうしてFreudはトラウマのテーマに少しずつ向き合いつつあったものの、1930年代になると、あたかも自身の1890年代までの性的外傷説の内容をより精緻化したかのようなFerenczi の発表に対しては、Freud自身が全力を持ってその公開を阻止しようとしたという経緯があった。
 近年の関係精神分析においては、このFerencziの先駆性およびトラウマ理論の重要性が見直されつつある。2008年にはニューヨークにフェレンチセンターも立ち上がっている。わが国でも森茂起先生らによる翻訳により、Ferencziの業績が再考される機会が与えられている。
それらの研究が示すのは、Ferencziは驚くべき先駆者であり、RPを事実上先取りしていたという意見すらある。(The Legacy Of Sandor Ferenczi (1993). Editors: Lewis Aron & Adrienne Harris.Routledge)興味深いのは、Ferencziの再評価は、そのまま外傷理論の再評価を表しているとも考えられることだ。
Ferencziの理論の先駆性を示す概念の一つに、「攻撃者との同一化」がある。この概念は、一般にはAnna Freud1936) が提出したと考えられている。彼女の「自我と防衛機制」に防衛の一つとして記載されている同概念は、「攻撃者の衣を借りることで、その性質を帯び、それを真似することで、子供は脅かされている人から、脅かす人に変身する。(p. 113).」と説明される。しかしこれはかなり誤解を招くし、そもそもFerencziの考えとは大きく異なったものだという(Franakel, 2002)。なぜならFerencziは、子供が攻撃者になり替わる、とは言っていない。彼が描いているのは一瞬にして自動的に起きる服従なのである。
Freud, A. (1936) The Ego and the Mechanisms of Defense,
 International Universities Press.(アンナ・フロイト著作集2, 岩崎学術出版社、1998) 
 ay Frankel (2002) Exploring Ferenczi's Concept of Identification with the Aggressor: Its Role in Trauma, Everyday Life, and the Therapeutic Relationship. Psychoanalytic Dialogues, 12:101-139.
 Ferenczi がこの概念を提出した「言葉の混乱」を少し追ってみよう。

「彼らの最初の衝動はこうでしょう。拒絶、憎しみ、嫌悪、精一杯の防衛。「ちがう、違う、欲しいのはこれではない、激しすぎる、苦しい」といったたぐいのものが直後の反応でしょう。恐ろしい不安によって麻痺していなければ、です。子どもは、身体的にも道徳的にも絶望を感じ、彼らの人格は、せめて思考のなかで抵抗するにも十分な堅固さをまだ持ち合わせていないので、大人の圧倒する力と権威が彼らを沈黙させ感覚を奪ってしまいます。ところが同じ不安がある頂点にまで達すると、攻撃者の意思に服従させ、攻撃者のあらゆる欲望の動きを汲み取り、それに従わせ、自らを忘れ去って攻撃者に完全に同一化させます。同一化によって、いわば攻撃者の取り入れによって、攻撃者は外的現実としては消えてしまい、心の外部ではなく内部に位置づけられます。」(p.144-145)