2015年12月29日火曜日

精神分析におけるトラウマ理論(推敲1)

精神分析におけるトラウマの理論の発展は、ある意味では時代的な必然と言える。 それは精神分析理論の発展の歴史的な背景に起因している。フロイトは1890年代の終わりに性的誘惑説を棄却したとされているが、その後の理論の発展で、欲動論の一部を修正し(Freud,1926)、新たにトラウマの問題に関心を向けたとみなすこともできる(岡野、1995)。しかし彼がそれでも堅持したリビドー論や欲動論的な視点は、結局はいわゆる「葛藤モデル」に立ったものであり続け、発達上のトラウマ要因を重んじる「欠損モデル」とは袂を分かっていたというところがある。1970年代以降になり、PTSDや解離の病理が盛んに論じられ始めた時、精神分析はその動きに出遅れていたという感がある。しかし最近では関係精神分析におけるトラウマの議論のみならず、クライン派によるトラウマ理論も提出されている(Garland, 1998

Garland, C. ed.Understanding Trauma: A Psychoanalytical Approach Karnac Books, London, 1998) ガーランド編 松木邦裕訳 トラウマを理解する. 岩崎学術出版社、2011年。
Freud, S.1926 Inhibitions, Symptoms, and Anxiety. S.E. 20. フロイト「制止、症状、不安」(『フロイト著作集6巻』人文書院
岡野憲一郎 外傷性精神障害 1995 岩崎学術出版社

このことは次のようなKernberg,O.の言葉にも表される。Kernberg 1970年、80年代に境界パーソナリティ障害の病因論として、クライン派の考えに沿って生まれつきの攻撃性を主張していたことは知られるが、その後1995年に次のように述べてかつて提唱した理論の一部修正を行っている。
「…同時に私は生まれつきの攻撃性についても曖昧ではなくなってきている。問題は生まれつきの、強烈な攻撃的な情動状態へのなり易さであり、それを複雑にしているのが、攻撃的で回避をさそう情動や組織化された攻撃性を引き起こすようなトラウマ的な体験なのだ。私はよりトラウマに注意を向けるようになったが、それは身体的虐待や性的虐待や、身体的虐待を目撃することが重症のパーソナリティ障害の発達にとって有する重要性についての最近の発見の影響を受けているからだ。つまり私の中では考え方のシフトが起きたのだ…)」。(Kernberg, O.,1995
At the same time, I'm less vague now in talking about inborn aggression; what we are talking about is an inborn disposition to intense, aggressive affect states, complicated by traumatic experiences that trigger aggressive or aversive affect and organized aggression. I'm paying more attention to trauma under the impact of recent discoveries about the importance of physical abuse, sexual abuse, and the witnessing of physical abuse in the development of severe personality disorders, particularly with the borderline personality disorder and the antisocial personality disorder. So there has been a shift in my thinking, and I believe that the common path by which genetic predisposition and trauma are linked is that genetic predisposition is expressed in neurohumoral control of activation of affects. (Kernberg, O (1995An Interview with Otto Kernberg. Psychoanalytic Dialogues, 5:325-363) 

カンバーグの例のように、長い伝統を持つ精神分析も、最近きわめて頻繁に話題になる虐待やトラウマをめぐる議論に影響され、それを取り入れることはむしろ当然の成り行きといえる。ただしトラウマの捉え方と治療的な扱いは、学派によりさまざまに異なる。たとえば前掲書に代表されるクライン派の捉え方によれば、トラウマとは、フロイトのいう刺激保護障壁が破られることにより生じ、トラウマ的な出来事は、内的な恐怖や空想の中で最悪なものを確証させることであると理解される。そしてその治療技法としては転移解釈が主たる技法であるという主張がなされる。
それと比較して、間主観性理論の立場に立つStolorow,R.2007)は、トラウマををより関係論的でコンテクスト的にとらえる。そしてトラウマは、愛する人がいつ何時死ぬかもしれないという現実を自覚することにつながり、その孤独を理解してくれるのは、同様のトラウマを体験した人でなくてはならないとさえ主張する。
Stolorow, RD (2007) Trauma and Human Existence. Autobiographical, Psychoanalytic, and Philosophical Reflections. Routledge.ロバート・D・ストロロウ著 和田秀樹 訳「トラウマの精神分析 自伝的・哲学的省察」岩崎学術出版社、2009


 このように精神分析においてもトラウマへの注目がみられるが、それは精神分析がある種の進化を遂げて、21世紀に入ってやっとその域に達したのだろうか? 必ずしもそういうわけではない。むしろその流れは精神分析の歴史の中に既に存在しつつ、ある意味では傍流として扱われていたという事情がある。