2015年12月31日木曜日

解釈を超えて(1)

穏やかな年の瀬である。ありがたいことだ。今年もいろいろあった。 ブログの方は相変わらず一方的に進行していく。
解釈を超えて、というテーマでしばらくまとめてみる。


 私にとっての解釈(もちろん精神分析の概念としてのそれ、である)は、誤解を恐れずに言えば、一種の背後霊のような存在である。つまり私が治療中にどのような介入を行ったとしても、つねに「それは解釈なのか?暗示になってはいないか?」と問いかける声がどこかから聞こえてくる。
「精神分析療法の道(1919)」において、フロイトは「分析という純金に,直接暗示という銅を合金するような技法の修正や工夫を行わざるを得なくなるであろう」と論じる。ここでの「分析」とは解釈的な介入のことだと考えていいであろう。そしてこの「解釈以外は分析でない」というメッセージは後世に強いインパクトを与えたといえる。現在の精神分析においてもそうだといっていいだろう。
ただし私は解釈という介入には非常に複雑な思いを抱いている。本当に解釈だけでいいのか? 当のフロイトが棄却したはずの暗示について、その治療効果を有することをフロイト自身が述べているのだ。
……… 医師への転移が抵抗となるのは、それが陰性のものであったり、抑圧された性的本能による陽性転移の場合である。もし私たちが転移を意識化させて「取り除いた」としても、それは彼の医者に対する情緒的な態度の二つの要素を取り払ったにすぎない。残りの要素、つまり意識化することが出来、抵抗とならない転移は残り、それはそのほかの治療法とまさに同様に、精神分析を成功へと導くのである。その意味では、精神分析の結果は暗示に依っているといえよう。(「感情転移の力動性について」1912b.  p.105. 下線岡野。)

ここでこのフロイトの中に、解釈と転移関係の二つが、言わば矛盾するような形で「精神分析を成功へと導く」要素として並列されている点は非常に興味深い。

何が治療を動かすか?

そもそも虚心坦懐に自分がセラピーを行っているときの心の動きを振り返ってみたい。すると私が「解釈」的な見方とはかなり異なる心の動かし方をしていることがわかる。少なくとも私は「クライエントの言葉の背後に何があるのだろう?」という気持ちの持ち方をそもそもしていないのである。それはどのような意味においてであろうか?
患者の話を聞いているとき、私たちの意識の大部分は、言語的に伝達される情報の入力と理解に費やされるであろう。ただそれ以外の多くのことが感じ取られる。それは例えば患者の話から喚起される様々な情動、の内容と情動との食い違い、以前に聞いた話との矛盾点、患者の話から連想される自分自身の体験、などさまざまである。その中で「この患者のこの話Aは、Bという無意識内容を表している」という認識はかなり高度であり、かつその確証はなかなか得られないものである。それではその確証が得られるまでの根拠が得られるまで待つのであろうか?おそらくそうではないであろう。私たちはそれ以前に気付くことを患者に問いかけげいるに違いない。それはおそらく質問や明確化の形であろう。
はるか昔に米国で担当したケースCさんを例に挙げよう。そのクライエントは学校の教師で、近頃の生徒がいかに不作法で、教師に対する礼儀を知らないかを語った。彼は規律を重んじることを生徒に教えるために、かなり厳しい接し方をしているという印象を持ったのである。そのうち私はCさんのその接し方が、しばしば彼が語る彼の父親の態度に似ているのではないかと思うようになった。Cさんは父親がサディスティックに彼をいじめたというのであるが、Cさん自身の生徒への態度に私は同じニュアンスを感じたのである。私はそのことについてCさんにどのように伝えるべきかを考えた。Cさんが自らの教育方針について語る時には確信に満ち、その正しさについての確信には疑いの余地がないという印象を受けた。そのCさんに「あなたの生徒への指導は、どこかサディスティックなところはありませんか?」という疑問をぶつけることはとてもはばかられた。
おそらく心理療法を行っていると、このような局面にしばしば遭遇する。聞き手にはクライエントが何かについて認めること、直面化することに抵抗を示しているが感じ取られたり、そうではないかという疑いの念を持ったりするのである。しかしそこに直接は足を踏み入れない。そのかわりにクライエントがそのことに自分で行き着くことを援助するだろう。そう、この場合は解釈はなされないし、なされないことに意味があるのだ。それはいつか、クライエント自身が「私は生徒に対して、結局父親が私にしていたことと同じことをしていたのかもしれません。」といったときに、少し驚き、「なるほど、そのような考え方も・・・・ありですか・・・・」という、きわめて消極的なあり方でしかなされないのではないだろうか?
このように考えると、心理療法で、解釈がなされない理由なら、いくらでも列挙できる気がしてくる。